山田太一 ドラマ 5年目のひとり (2016)

  山田太一の最終作かもしれないこのドラマのテーマは福島、老人ホーム、今どきの女子中学生である。少し地味な女子中学生の亜美は学園祭でリズムダンスを披露するがそれをじっと見ている中年男性がいた。眼光はギラギラと輝き異様な雰囲気である。この男性(渡辺謙)はどこからかやって来てこの地のパン屋でバイトを始めたばかりのようだ。男は学園祭の帰り道の歩道橋で亜美を待ち伏せして君は一番だったよと声を掛ける。不審に思いながらも嬉しかったのか家に帰って母親に話す亜美。母親は警察に通報してたちまち事案となる。母親と娘にはちょっとした確執があるようだ。だが亜美は親切にも男の働くパン屋を訪ねて行って事案になっているよと教えてあげる。ここからなんとなく交際が始まる。

  この無理無理な設定をサポートしているのが老人ホーム手伝いの京子(市原悦子)である。嫌がる店主を言いくるめてパン屋のアルバイトに就かせたのは彼女であるし各所でアドバイザー的な役割を果たす。亜美と甘味処で会っているとき男は亜美が亡くなった自分の娘に瓜二つだと告白する。ドン引きする亜美だがそれでもまだ男と関わり合いを続ける。同級生らと男のアパートを訪ね津波で亡くなった家族の写真を見せてもらい涙する。

  この事を亜美の同級生から聞かされた父の満(柳葉敏郎)は妻とパン屋を訪ね店主にクレームを入れるがそこへ男が現れる。気まずい雰囲気になるが男は謝罪して今後一切娘さんには近づかないと約束する。

  亜美には軽薄そうなタメ口の兄がいてよく口論するが彼にこの事態の打開を頼む。兄はパン屋をアポなしで訪れて不躾な事を幾つか言い男をムッとさせるが、少し打ち解けてから妹ともう一度会ってくれときり出す。だがそれは無理な話だ。男は福島に帰る事になる。最後にパン屋に店主、退院してきた店主の妻、男、京子が参集するが本音をぶつけ合うような送別会は無し。男は帰り道で京子と話しているうちに慟哭する。福島に帰る日男は歩道橋の下で亜美と待ち合わせし道路の向こうからありがとうと言って消えていった。

  淡い恋のような終わり方だったがテーマとしてはどこか違和感がある。多くの当事者が現状復帰できずにもがいている状況でこの男は援交のような事をして癒されていたのである。作者はこういうのも有りと言っているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

BSドキュメンタリー 虐殺を越え”隣人”に戻るまで(2017)

  ルワンダ虐殺から23年経ち首都のキガリでは経済発展が続いている。道行く人は綺麗な身なりをしツチ、フツの区別はもう無く我々はルワンダ人だという。その一方でニャマタ虐殺記念館には犠牲者の衣服や装身具、頭蓋骨が残されている。ここは元教会でフツの人が一万人避難してきたがツチに一網打尽にされ虐殺されたのである。 


  フイエの大学で平和学部を立ち上げた佐々木和之氏(51)は学生達に過去の経験を語らせるという授業を行っている。ある学生は佐々木氏の言葉に導かれて父を殺された体験を語る。このとき佐々木氏は照明を落とし蝋燭を灯すという演出をしている。この授業の目的は癒しを得ることだと言う。

  今度は車で6時間の村に妻と学生達を連れて向かう。佐々木氏はここで養豚場を立ち上げ村人に働いてもらっている。被害者のサラビアナ(55)は手と顔にナタの傷が残っている。これによって結婚もできなかったと言う。隣人だった加害者のアンドレは刑務所に入ったが今は出てきている。その時の状況を語る。軍隊がやってきてツチを殺せと脅したのだと言う。

  二人から個別に話を聞いた後、佐々木氏は加害者達を集め謝罪の会を開くと言う。3日後の2時に会が開かれた。アンドレに状況を語らせ、サラビアナが思っている事を話す。二人は幼馴染である。サラビアナが追及するとアンドレは一言も言い返せない。すぐ会はお開きとなった。しかしアンドレの申し出で5日後に佐々木氏の立会いの元もう一度対面する事になった。この時はサラビアナの口調も少し和らいでいた。

  佐々木氏の元で平和学を学んだ学生が各地で活動を始めたと言う。よそで同じような事をやるのだろうか。人付き合いが苦手そうな佐々木氏の表情と天真爛漫なルワンダの人の顔が印象的なドキュメンタリーである。NHK的なキーワードが散りばめられた気持ち悪い構成の番組だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

DUAL GATE MOS FET プリアンプ II (2)

   現在稼働中の一号機。DENON PRAー2000のイコライザーセレクターだけ使い、これを通してHMAー9500 IIに繋いでいる。電源スイッチは使っていると引っ掛かりが無くなることがあるので予備が必要だ。このスイッチは3つ目である。

 

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  二号機はここまで来た。音を再現するには同じ半導体の方がいいだろう。

 

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東洋文庫 南島雑話 幕末奄美民俗誌 (1855)

  奄美に遠島となった薩摩藩士名越左源太が五年間滞島した折に記した絵入り民俗誌である。冒頭には享保十二年の検地の石高が「大島私考」より引き写してある。一万六千七百七十八石六斗一升一合四夕九才とある。畑作も行われており大麦小麦も徴税するようだ。「耕芸の事」の項で稲を刈る時の一把、一タバリという呼称は薩摩藩には無いという。これについては以下の様な考察がある。

  日本上古の言葉、吾藩今通言なくて、此島今通ずる事は数多あり。平家没落の人衆、此島に渡りしより人倫の道稍開けて九族を分かち、五穀を栽て、作職を励しと云ふ。

  平家が来た後は姥捨の風習が無くなったという言い伝えがある。

  作物の事。蕎麦は出来ないが粟は良く出来ると云う。山を切り開いて畑作をする。唐芋、粟、大根、蕪、黍、赤ゴシヤ、里芋、藍、生姜、煙草、砂糖黍がよく出来る。唐芋(甘藷)については特に詳しく記されている。

  衣類の事。婦人は皆織物をする。芭蕉から採った綿で織り藍で紺に染める。養蚕も盛んとは言えないが行われている。此辺の島では芭蕉が多く自生する。皮を剥いで灰汁で煮て竹でしごけば繊維が採れる。

  続いて住居、食べ物についての記述があるが略す。

 

 

 


映画 櫂 (1985)

  高知で娼妓紹介所を営む富田岩伍(緒形拳)の妻である喜和(十朱幸代)の一代記になっている。裕福な富田家では長男竜太郎、次男健太郎に加え神戸の港で岩伍が買ってきた菊が番頭たちに囲まれすくすくと育っていた。だが竜太郎は肺病で亡くなり、健太郎は賭博場のトラブルでヤクザを殺し刑務所に入るというとんでもない状況に陥る。ヤクザに殴り込みをかけようとする岩伍を喜和が何とか宥めて破滅を免れた。

  商売の方は順調に行く。岩伍は芸妓の巴吉の売り出しに成功するが自分の妾にしてしまい綾子をもうける。この赤子をめぐって岩伍と喜和が対立する。岩伍側は巴吉と別れる代わりに綾子を家に入れると言う。喜和が育てろと言う事だがこれには喜和が猛然と反発する。結局乳母を雇う事で妥協が成立する。

  今度はヤクザ側が岩伍を襲撃する。この時岩伍は怪我で済んだが車夫が撃たれ死亡する。その知らせを聞いた喜和が子宮筋腫で倒れ手術を受ける事になる。手術は無事に終わり平穏を取り戻した富田家では綾子がすくすくと育ってゆく。綾子は菊と違って器量良しである。

  或る日岩伍は亡くなった車夫の家を訪ね焼香するのだが未亡人の照にムラムラと来て妾にしてしまう。健太郎が出所し富田家の商売を切り盛りする事になるが喜和と綾子の事を冷遇し始める。怒った喜和は綾子を連れて出て行き長屋で貧乏着らしを始めるのであるがだんだん窮地に追い込まれてゆく。結局さらに裕福になった岩伍の元へ綾子を喜和はハイヤーで送り、自分は橋の上で下車し去ってゆく所で映画は終わる。

  大正の頃の裕福な家はこんなものだと言えばそれまでだが、喜和はわりと現代風の感覚で対処して生きている。この辺が作者の狙いなのだろう。五社英雄監督の作品らしく絵には趣があり俳優陣の演技は重厚である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画 私はシベリヤの捕虜だった (1952)

  タイ語によるオープニングロールとともに雪原を歩く捕虜たちが現れ手前には鉄条網が見える。ここだけ音声が無い。私たちは流刑囚用の収容所に送られたというナレーションで始まる冒頭の7分間はドキュメンタリーのように見える。森林を切り開く作業のところから俳優が演技しているなと判る。捕虜になり1年半経った頃であるという。まだ上官が幅を利かせている。捕虜が作業中の事故で亡くなったり、罰を受けて外に出されて凍死したりという悲劇が描かれる。貧弱な食事の分配、ノルマの事でトラブルが持ち上がる。

  或る朝、本日帰国することが決まったという発表がある。帰国の為の列車が雪原を走る。車内の捕虜たちは最初は喜びに湧いていたが行先が違うことにだんだん気付いてくる。次の収容所は思想教育が行われている所だった。民主化同盟と名乗る一団が幅を利かせており将校たちは別の収容所に送られる。葉書が配られ皆が家族に安否を知らせることができた。だが春が来ても帰国の為の船は来ずノルマがきつくなるばかりである。元上官が人民裁判にかけられる。帰国が決まりいよいよナホトカに帰国船が到着する。歓喜に沸く日本人捕虜たち。だが帰国間際、正論を言い通した男は反動分子とされ帰国を許されず炭鉱送りとなった。さらに皮肉な事にお調子者の密告者も帰国を許されず一緒に炭鉱送りとなったのである。

  舞鶴引揚記念館でこの時の葉書などを見ることができる。