東洋文庫 醒睡笑 戦国の笑話 (1628)

本書は京都誓願寺の策伝和尚によって編纂された戦国・桃山時代の笑話の集成である。これにより策伝は落語の祖とも言われている。興味深かったものを一部紹介する。

《巻の三

ある人が小姓の名を、かすなぎと呼んで、使っているので、客が不審に思い、その理由をたずねたところ、「それはこういうわけだ。春長と書いて、かすは春日のかす、なぎは長刀のなぎさ」と答えた。》

この種の技巧を当字謎という。

《巻の三

「笛と書く時のえは、縮みえか、末のゑか、どっちがよい」ときかれて「されば定家の仮名遣にも、また源氏物語なども、縮みえを書いてある」と答えるのに対し、横から「いや、横え(への字のこと)がよい」というので、「なぜ」ときいたら、「笛は横にして吹くから」。そばでこのやり取りをきいていた禅門が、それで疑問が氷解したという体で、「なるほど、尺八の八も横えじゃ」といった。》

《巻の三
宗祇が連歌修行に東国を旅行していたときの事、二間四面のりっぱな堂があったので、立寄って腰をかけた。堂守が、「客僧は上方の人でござるか」「左様」「それならば発句を一つ致しましょうから、付けてみたまえ」といって、

新しく造り立てたる地蔵堂

と詠んだ。宗祇は、

物までもきらめきにけり

と付けた。堂守が「これは短いの」といった時、宗祇は、「そちのいや言(余った字)の仮名をつけたすがよい」といった。》

膨大にあるので(七百余話)このくらいにしておくが、文章から当時の雰囲気が伝わってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

失われた時を求めて (120)

第一次世界大戦について人々がどう思っていたか、サン=ルーとプルーストの会話に現れている。以下引用文。(吉川一義訳)

《「長引くのだろうか?と私はサン=ルーに訊ねた。」「いや、ぼくはきわめて短期の戦争になると思うよ」とサン=ルーは答えたが、この場合もその論拠は、いつもと同様、机上の空論だった。「モルトケの予言を考慮に入れながら、一九一三年十月二十八日の大部隊の戦闘指揮にかんする政令を読みかえしてごらん」》

これは長期戦になるなら予備兵の補充が行われるはずというサン=ルーの軍人ならではの読みであるが、シニカルな思考回路のプルーストは立案者が見通しを欠いていただけだと考える。

サン=ルーが戦死することを匂わせておいてプルーストが長々と論じているのは、サン=ルーの貴族性といさぎのよさであるが、ブロックとの対比によってますます際立ってくる。

戦況の電撃的な変化がわかる記述がある。以下引用文。(吉川一義訳)

《ジルベルトが書いてきたところでは(1914年9月ごろのことだった)、ロベールの消息が容易に得られるようパリにとどまりたいのは山々だったが、パリの上空にたえず飛来するタウべの空襲に肝をつぶし、とりわけ小さな娘のことを思うと心配でたまらず、コンブレーへ向かう最後の汽車でパリを逃げだしたものの、汽車はコンブレーまで行き着かず、農夫の荷車に乗せてもらい、そのうえで十時間も揺られる難行のすえ、ようやくタンソンヴィルにたどり着いた!》

そのあとすぐ一個連隊を従えたドイツ軍参謀部がタンソンヴィルにやってきたのである。だがジルベルトによれば参謀部も兵士も礼儀正しかったようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パワーアンプ I (1)

  プリアンプIII はまあこれで完成したと思うので(15種類のディスクリート基板が載るはず)、いよいよパワーアンプ I に取りかかる。

   電源部は6.5A流せるスイッチング電源で、±50Vが得られるものにした。これだけで2万円する。

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  基板の選定は3番目のものにした。MOS FET の2パラにする予定。

 

 

 

 

 

 

失われた時を求めて (119)

ヴェルデュラン夫妻のサロンの隆盛について語るプルーストだが、今は政治がらみの話題が増えてきたのだという。それに婦人のファッションも戦時色が濃くなって地味なものになったという。具体的な様子がわかる文章を紹介する。以下引用文。(吉川一義訳)

《言い忘れていたが、ヴェルデュラン家の「サロン」は、その精神においても実態においても変わらず存続していたが、場所だけは一時的にパリの最高級ホテルのひとつへ移転していた。石炭と照明が不足して、ヴェネツィア大使たちが使っていた湿気の多い古い住まいでヴェルデュラン夫妻がレセプションを開催するのがだんだん困難になってきたからである。》

次の描写は映画レッド・バロンに出てくるリヒトホーフェンが活躍した時代を垣間見させてくれる。以下引用文。(吉川一義訳)

《たとえば遠くから山を見ると、それを雲かと思うことがある。しかしその雲がじつは巨大で堅固なかたまりで、頑丈なものだとわかると、人は心を動かされる。それと同じで私は、夏の空にうかぶ褐色の斑点が、羽虫でも小鳥でもなく、パリを哨戒する男たちの乗りこんだ飛行機だということに感動した。》

この二ヶ月ばかりのパリ滞在中プルーストはブロックとサン=ルーに会っただけであるという。

 

 

 

 

 

 

 

 

東洋文庫 長崎海軍伝習所の日々 日本滞在記抄(1860)

本書はオランダ海軍二等尉官リッダー・ホイセン・ファン・カッテンディーケが日記を元に書き下ろしたものである。幕府は海軍創設を急いでいたがそのためにオランダに軍艦建造を依頼し、オランダの勧めで艦船の操縦術の学校を長崎に作った。そこへ第二次教育班として建造なったヤパン号(後の咸臨丸)に乗ってやって来たのがカッティンディーケである。本書の解説文のくだりを一部紹介する。

寛永十年(1633)徳川幕府は、いわゆる鎖国令を出した。以来二百有余年、我が国民は遠洋航海に適する船舶はその建造を厳禁されて、外国との交通を全く不可能にされ、他方外国人も支那・朝鮮・オランダの三国民を除くほかは、いっさい我が国に渡来することを禁じたばかりでなく、右の支那・オランダ両国民といえども、我が国における居住は長崎に限られ、かつ我が国民との接触は、ただ当路より特許を与えられた人々以外は厳禁されて、また洋書という洋書はその内容の如何を問わず、ことごとく幕府自身を除いて他は何人も絶対に目を通すことを許さなかったというほど厳しいものだった。》

徳川幕府鎖国という語は使っていないが、開国の反対語は鎖国であり、海禁ではない。このへんの事情は「いわゆる」をつければ十分通じる事柄である。

咸臨丸とエド号は福岡まで航行することになった。

《夜に入る前に、我々は大きな、しかし浅い港に入った。福岡はその港の南岸一帯に延びていて、博多市と相隣りし、両者合して一体をなしている。両市の長さは徒歩でゆうに二時間はかかるほどである。どうも此処には、まだヨーロッパ人は一度も来たことがないらしい。我々は直ぐに上陸し、藩候の手代から公式に出迎えを受けた。その出迎えには、八頭の立派な馬が曳かれて来たが、これは非常な歓待の印であるとのことだった。》

著者の日本観を示す興味深い文章を紹介する。

《日本国民が、井中の蛙のごとき強烈なる国民的自負を持つのも、あながち驚くには当たらない。日本人は非常に物わかりが早い、しかしまたその一面、こうした人によくある通り、どうも苦労しないで、あれもこれもすぐ飽いてしまう。彼等は人倫を儒教によって学び、徳を磨くことに無限の愛を感じ、両親、年長者および教師に対し、最上の敬意を払い、政府の力や法規を尊重すること、あたかも天性のごとくである。その反対に、最も慎重に扱わねばならぬ事柄でも茶化してしまうような、軽薄な国民でもある。》