山岡荘八 新太平記 3 (1986)

     日本歴史シリーズ7 南北朝を読んでいると気になる記述があった。新田義貞が鎌倉に攻め入り北条氏を滅ぼすのが1333年のことである。

    義貞は思わぬ大軍を藤沢にすすめ、自らは大手の軍を率いて極楽寺坂に向かい、一手は小袋坂に、一手は化粧坂に向かわせた。高時は数千の兵をもって防戦したが、極楽寺口まず敗れ、百五十余年の武士の都は業火の中に投げ込まれた。小袋坂、化粧坂もまた敗れ、高時らは力つきて、葛西谷の東勝寺で自刃した。門葉二百八十三人、一族八百七十余人、恩顧の輩六千余人がこれにならった。

     鎌倉攻めのハイライトであるが死者数が凄いなと思った。書店に行き新太平記を見つけたので買って読んでみると小手指原(所沢)の戦いから書かれていて高時自刃の所まで興味深く読み通した。ここまで書いてあるとやっと腑に落ちたという感じがする。