東洋文庫 ヴィンセント・シーン 東方への私の旅 〜リフの山々から中国へ (1935)

  シカゴ大学を出てニューヨークのデイリー・ニューズ社の記者となったシーンはゴシップ記事を書いていたが1年働いた後貯めたお金でパリへ旅立つ。パリで数日ぶらぶらし北フランスの下宿をみつけるとそこに三ヶ月滞在し小説を書きながら語学を習得する。イタリア語がまだまだだと痛感したシーンはヴェネチアの男爵邸に安く下宿しながら過ごす内にファシストの事を知る。ヴェネチアでも黒シャツを着た青年が棍棒とヒマシ油を持って暴れまわっているという。男爵は毎月2000リラ払って被害から逃れているという。秋になるとヴェネチアを辞しモンテカルロ、ローマと回りいよいよパリに戻る。そこではシカゴ・トリビューン支局で外国通信員として三年働く事になる。

  まずフランスの首相になっていたポアンカレの動向を追う。ポアンカレはルールに進駐しドイツから賠償金を取る事に執心していたが結局は上手く行かず退陣する事になる。シーンはポアンカレの事を律儀な田舎者と酷評しているがクレマンソーについてはある程度評価しているようだ。

  トルコはケマルの奮闘によりスミルナのギリシャ軍を粉砕する。戦後処理のためのローザンヌ会議が開かれシーンが派遣される。二ヶ月の間ゆるゆると会議が行われシーンはその間ギリシャ側の代表ヴェニゼロスと顔を合わせることになる。シーンは彼の事を大変魅力的な人物と評している。

  ムソリーニのコルフ島占領事件(1923)に世界が驚くがその頃はイギリスはアイルランド人を虐殺し米国はハイチを占領しており英仏米は聖人ぶってムソリーニを批判出来ない状況にあった。シーンは1923年の国際連盟総会(ジュネーブ)を傍聴しエチオピア(旧アビシニア)の連盟加入、コルフ島問題の討議を目撃している。国際連盟は死にかかっているとシーンには見えたらしい。

1924年にかけてヨーロッパはさらに混迷を深めてゆく。1923年10月にはラインランド分離独立、1924年6月マッティオッティ事件が起こる。シーンはリベラ政権下のスペインでスパイ容疑で逮捕される。その後シーンはモロッコ、中国と旅をして見聞した出来事などを克明に記録する。