NHK BS 奥底の悲しみ (2015年山口放送制作)

  終戦後660万人の引揚げ者が博多、佐世保舞鶴浦賀などの港に上陸し身元の確認、検疫などが行われた。山口県仙崎港にも41万人の引揚者が上陸したという。国により設置された仙崎引揚援護局に残された記録を調べると特殊婦人という項目がある。特殊婦人とは暴行を受けて妊娠又は性病になった婦人の事である。 病人、負傷者は近くにある極楽寺で手当てを受けた。先代住職の手記が残っている。当時の看護婦たちの集合写真から仙崎在住の看護婦Kさんを割り出し取材する。終戦から1年経つと引揚げ者の姿は無残に変貌していたという。次に引揚者のFさん(当時18歳)を取材する。北朝鮮の鎮南浦で終戦を迎えたFさんはやって来たソ連兵からの暴行を逃れるために天井裏に2ヶ月隠れ頭を丸め男に見せかけたと言う。友人たちや女子の多くはやられたと言う。


  博多に引揚げたKさんは北朝鮮の兼二浦で終戦を迎えた。Kさんの母親(当時33歳)も隠れたが見つかりソ連兵の言いなりになったという。博多港には150万人が引揚げた。博多へ向かう船で身を投げた女性がいたとKさんは後になって聞いたと言う。博多には二日市保養所が作られ多くの堕胎手術が行われた。年間400〜500人行われたと言う。これについては「京城日赤と引揚げ医療活動」という元京城日赤病院看護婦だったMさんの手記がある。
  杵築市に住む元看護婦Aさんを取材する。長年沈黙を守っていたが当時の苦労を役目と割り切って今は話す事ができるという。佐世保には139万人が引揚げた。佐世保友の会が記録した問診日誌には暴行を受けた状況が綴られている。いろいろなケースがあったことがわかる。ソ連兵は相当酷いことをしている。又堕胎手術は全国の国立病院で無料で行われたと言う。

  満州から引揚げたNさんを訪ねインタビューの代わりに手記を書いてもらった。Nさんは当時8歳で国民学校校長の父の元奉天で良い暮らしをしていたと言う。 ソ連兵がやってきて強奪、強姦を行う。隣の隣の家では手榴弾で一家心中した。開拓団ごと自決したと言う記録もある。北朝鮮から引揚げたKさんも手記を書いた。球場という町で11歳の時敗戦を迎えた。ソ連兵がやって来て「マダムダワイ(女を出せ)」と言いマンドリン銃を撃った。雪の中、道路でもこういう事が行われた。この手記を書き終えてKさんは肩の荷が少し下りたと言う。

  満州から引揚げた光市に住むSさんは当時9歳だった。姉は無事だったが母はソ連兵に連れて行かれ犯されたと言う。今回の取材でとうとう口にしてしまったが恥と思う心もあるようだ。Kさんは一等皇民、二等皇民、三等皇民で配給の差がついた話に言及する。Nさんの3人の弟は引揚げの道中次々と亡くなった。母は泣いていたと言う。Sさんらは集団で移動を開始したが母が新京で衰弱死した。その姿をSさんはつぶさに見ている。その記憶を忘れるためにSさんは明るく振る舞う習慣がついたと言う。Kさんは今では孫までいる境遇にあり幸せそうだが自分の体験を曽孫まで伝えらればという願いがあるようだ。

  このドキュメンタリーの後半は取り留めの無い編集だったが要するにこれまで出版された引揚者の手記に書かれていることとあまり違いのない内容と言えるだろう。このドキュメンタリーの主題は記憶を封印せざるを得なかった当事者の心の悲しみに焦点を当てるというものだが其れでは感傷的で浅い。手記を総合的に考察すると少なくとも関東軍ソ連軍と地上戦をするべきだったし引揚者は北朝鮮には行かず新京に留まってマーシャル、周恩来、張群の協定による帰還事業で帰ってくるのが最善だったと結論付けられるのである。