映画 私はシベリヤの捕虜だった (1952)

  タイ語によるオープニングロールとともに雪原を歩く捕虜たちが現れ手前には鉄条網が見える。ここだけ音声が無い。私たちは流刑囚用の収容所に送られたというナレーションで始まる冒頭の7分間はドキュメンタリーのように見える。森林を切り開く作業のところから俳優が演技しているなと判る。捕虜になり1年半経った頃であるという。まだ上官が幅を利かせている。捕虜が作業中の事故で亡くなったり、罰を受けて外に出されて凍死したりという悲劇が描かれる。貧弱な食事の分配、ノルマの事でトラブルが持ち上がる。

  或る朝、本日帰国することが決まったという発表がある。帰国の為の列車が雪原を走る。車内の捕虜たちは最初は喜びに湧いていたが行先が違うことにだんだん気付いてくる。次の収容所は思想教育が行われている所だった。民主化同盟と名乗る一団が幅を利かせており将校たちは別の収容所に送られる。葉書が配られ皆が家族に安否を知らせることができた。だが春が来ても帰国の為の船は来ずノルマがきつくなるばかりである。元上官が人民裁判にかけられる。帰国が決まりいよいよナホトカに帰国船が到着する。歓喜に沸く日本人捕虜たち。だが帰国間際、正論を言い通した男は反動分子とされ帰国を許されず炭鉱送りとなった。さらに皮肉な事にお調子者の密告者も帰国を許されず一緒に炭鉱送りとなったのである。

  舞鶴引揚記念館でこの時の葉書などを見ることができる。