東洋文庫 ヴォルガ・ブルガール旅行記 イブン・ファドラーン著 (923)

アッバース朝のカリフ、ムクタディル・ビッラーの命によりバクダッドからヴォルガ・ブルガール王国へ使節団が派遣される。本書はその時随行した著者による報告書である。

西暦921年6月21日バクダッド出発。ホラーサーン門を出てホラーサーン街道を東に進む。最初の宿営地ナフラワーンに到着する。運河の両岸に開けた町である。ここには一泊する。次にダスカラに到着する。ここは農耕地の広がる大きな町でササン朝時代の大宮殿の跡がある。フルワーンに到着する。ここには二泊する。キルミースィーン(ケルマーンシャー)に到着する。川と樹木に囲まれた土地で商品が豊富で果物が安いところである。ここには三泊する。ハマザーン(ハマダーン)に到着する。ここはメディア王国の首都だった町で、城郭都市である。三泊する。サーワに到着する。ここは交通の要所である。ライイに到着する。ここでは所用があり11日滞在する。イスラム時代には栄えていたが今はテヘラン郊外8kmにある都市遺跡である。

フワール・アッライイ、スィムナーンと進みダームガーン(ダームガーン)に到着する。ここでダーイー派の者と遭遇した為キャラバンに身を隠して進むことになる。ニーシャブール(ネイシャーブル)に到着する。ここはホラーサーン地方の大都市であるが後にモンゴル軍により壊滅的打撃を受ける。サラフスに到着する。タジャンド川の東岸に位置する町でここからマルウまでは砂漠となる。マルウ(マリ)に到着する。ムルガーブ川はこの町を流れた後グッズ砂漠に消える。マルウは当時人口100万を超える大都市だったがチンギス・ハンの特使を殺害した為に皆殺しとなる。今は世界遺産のメルブ遺跡として残っている。ここからアームルまではカラ・クム砂漠を横切ることになる。

アームルはアム川西岸の町でこれも今は遺跡になっている。アム川を渡りアーフラブル、バイカンドを経てブハラに到着する。ここでは地方総督のもてなしを受ける。カリフの書簡を読み上げ、トルコ門までの警護を要請する。だが地方総督ナスルの陰謀に引っかかりここに28日間の滞在を余儀なくされた。とにかく口実を作りブハラを抜け出した後アム川に戻り船を調達してカースまで進む。カースは今のヒバの近くにあった都市で洪水で消失した。ここの総督は快く宿舎を提供してくれたが通行には難癖をつけて来た。だが一行は総督をなだめすかしてここを離れジュルジャーニヤ(ウルゲンチ)まで進む。この辺一帯はフワーリズム(ホラズム)と呼ばれている。ここは交易で栄えた要地で大量の北方物産が取引されていた。この辺の人々は卑俗であり会話もムクドリや蛙のように聞こえる。もうこの頃はアム川も凍結しロバや荷車がその上を通っている。寒さが厳しいのでジュルジャーニヤに4ヶ月滞在する。翌年の2月になると川の氷も溶け始める。ラクダや食料などの物資を調達して防寒着も用意する。

3月4日ジュルジャーニヤを出発してトルコ門に至る。トルコ門は辺境の要塞である。ここから先は不毛の砂漠地帯である。寒さと雪に苦しめられる。15日の行程で岩石の多い山に到達する。山を越えるとグッズ族の部落に到着した。彼らは毛織の天幕で野営をしていた。このトルコ人の部族はアッラーの信仰もなく、トイレは垂れ流しで、女性は陰部を見せている。その他いろいろと驚くべき習俗について記している。この地域を通過してアトラクという軍司令官に面会する。アトラクは天幕を設営し、羊を潰し、馬を与えてくれた。その夜ナジィール・アルハラミーからの書簡と贈り物をアトラクに渡しイスラム教に改宗するよう命じるが返事は保留される。ここでも一行を通過させるか殺すか一週間議論される。結局通過させてもらった。

ヤギンディー川を渡る為携帯用の舟を組み立てて4〜5人が乗りラクダと馬は泳がせた。その後もいくつもの川を渡りバジャナーク族の集落に至る。1日滞在してジャイフ川(ウラル川)の辺りで野営する。この川は水流が多く舟が一艘転覆して流されていった。その後もいくつもの川を渡りバーシュギルド族の領域で小休止する。彼らは残酷で悪質だがもうイスラム教に改宗していた。結局仲良くしてくれてさらに進む。とうとうサカーリバ王国(ヴォルガ・ブルガール王国の便宜上の呼び名)に到着する。ここはヴォルガ川とカマ川の合流点の近くで今のタタールスタン共和国である。王が一行を出迎える。西暦922年5月21日のことである。