吉田秀和 名曲のたのしみ 2012年7月21日放送分

チーフプロデューサー西川彰一の言。云々、この番組の最大の魅力は何と言っても吉田秀和という唯一無二の音楽評論家の自由自在な語り口にありました。原稿があるとはいえ随所に入る吉田さんのアドリブの一言こそが重要で別の人間が原稿をそのまま読んだのでは番組の持ち味が大きく損なわれてしまうことは否定できません。それでも吉田さんは放送を通じて音楽の魅力を伝える事に最後の日までこだわり続けた、その事を長年番組を聴いてくださった皆様に知っていただきたくて今後残された原稿の全てを紹介する事にしました。ご遺族の要望を踏まえ番組プロデューサーである私が代読いたします。以下略。

名曲のたのしみ吉田秀和。これから何ヶ月かにかけてご一緒にジャン・シベリウスの音楽を聴いていきましょう。シベリウスは一口に言って19世紀末から20世紀前半にかけてのヨーロッパ民族音楽の作曲家として7曲のシンフォニー、多数の交響詩、その他の管弦楽乃至弦楽合奏のための作品を通じて世界的に名の知られた大音楽家の一人です。ことに彼の生きて居た頃のフィンランドロシア帝国の統治下に置かれた半植民地みたいな境遇にあって国民の独立への望みが何よりも強かった。そしてそれがなかなか達成できない間に戦争が次々起こってさんざん苦しい想いをした時、祖国の古い神話と言うか民話と言うかに因んだ彼の音楽はその独立への強い思いのシンボルのような趣さえありました。これはまた単にフィンランド人にとってだけでなく外国の人々にとってもフィンランド民族の存在を強く意識さす力強いシンボルのようなものでもあったのでしょうねえ。今日はまずこのシベリウスを代表するシンボルのような音楽として記念碑的な意味を持つに至った作品26フィンランディアを皆さんと一緒に聴くことに致しましょう。これは始め歴史劇「歴史的情景」の一部として1899年に作曲され翌年改訂版が出て、今では独立した曲として演奏されます。じゃジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団の演奏でもって全曲通して聴きましょう。〜音楽〜

今僕たち聴いたのは云々。さて一口に言って19世紀末から20世紀前半にかけての後期国民楽派の大立者だったジャン・シベリウスは1865年12月8日ハメーンリンナというところに生まれました。この町はフィンランドの首都ヘルシンキの北西約100kmのところにある町です。フィンランドはご承知の通り北の果て西にはノルウェースウェーデン、南にはロシアがありスカンジナビア半島の東部にある国ですがその中でもこの一帯はキリスト教国のスウェーデンロシア正教のロシアの接点というかぶつかり合う地点にあたり知識階級の人々はスウェーデン語で読み書きをしていました。シベリウス一家の人々もスウェーデン語を話していて母親は教養のある音楽を愛する婦人だったようです。一方父は外科のお医者さん、しかしその父はジャンが3歳の時に急死したので以後母方の祖母の元に身を寄せていました。ジャンは5歳の時からピアノに親しみ7歳で叔母からピアノのレッスンを受けスウェーデン語の学校に通う傍らやがて我流で作曲もするようになったが14歳の時バイオリンをもらいました。このバイオリンが非常に彼の心を引きつけ夢中になってしまったので土地の軍楽隊の隊長さんのレッスンを受けることになりさらには室内楽を次々書くようになりました。そうして音楽家になる道を進もうとしましたが母たちの反対を受けすったもんだの末1885年19歳の年にヘルシンキの大学で法律を学ぶと同時に当地の音楽院で作曲とバイオリンの勉強をするようになりました。その音楽院在学中ピアノと作曲の教師として新しく赴任してきたベルッチョ・ブゾーニの指導を受けるうち親しい交わりを結ぶに至ります。1889年卒業作品で注目を受け一年間のベルリン留学を許され当地で新しい音楽リヒャルト・シュトラウスドンファンその他を聴いて交響詩の魅力に開眼、また祖国の作曲家で指揮者のロベルト・カヤヌス北欧神話カレワラに因んだアイノ交響曲の初演に接して民族的題材による創作の可能性に着眼するようになりました。しかしシベリウスはベルリン、当時の新興国として政治経済の勢いが圧倒的に幅をきかせるようになりつつあったベルリンの風土に馴染み難いものを覚えベルリンを去ってウィーンに赴きそこで一年間を過ごすようになりました。そこで改めてロベルト・フックスのような非常に手堅い作曲技法の教師について対位法その他を勉強する傍らブルックナーの第3シンフォニーの初演に接して感激したりしました。その間彼の社交好きな傾向が募りさらに酒、葉巻などへの嗜好の募るにつれ経済的に苦しくなったりもします。その年の春にはアイノ・ヤルネフェルトと婚約しました。1891年にはカレワラに基づくクレルヴォ交響曲を着想、翌年作曲を終えて祖国で行われた初演で大成功を収め、一躍国民的名声を博するようになります。同じ年アイノ・ヤルネフェルトと結婚さらにその後1901年まで続けることになるヘルシンキ音楽院の教職にも任命され生活の基盤が固まりました。教職には多くの時間を当てねばならずなかなか忙しかったのですがとにかく生活の最低限の費用を満たす保証は得られたのでシベリウスの創作活動は活発に続けられました。1892年には交響詩エン・サガ、ある伝説作品9が生まれます。これは1901年に改訂版が出て今日ではその版で演奏されているようですがこれからシベリウスが書いて行くフィンランドの古い伝説に基づくオーケストラのための交響詩の群れの第一歩となる作品です。云々、云々、云々。じゃ交響詩エンサガ作品9をカラヤン指揮ベルリンフィルの演奏で聴きましょう。〜音楽〜

今聴いたのは云々。シベリウスはさらに翌1893年にはオーケストラのための組曲カレリア作品11も作曲しています。カレリアというのは後にその大部分が戦争の結果ロシアに割譲されてしまったフィンランドの東、ロシアとの国境に当たる地方一帯を指します。元々はつまり歴史的にはフィンランドの一部でありそれも歴史と伝統文化の宝庫としてフィンランドにとってはかけがえのない地域でした。シベリウスがこの組曲カレリアを書いた頃は勿論フィンランド領であり特に古代伝承による作曲を心掛けていたシベリウスにとっては特に重要なもので彼はアイノとの婚約時代にはわざわざカレリア地方に旅行してその伝承の地を見て回ったくらいです。云々、云々。じゃシベリウス作曲組曲カレリア作品11をバルビローリ指揮ハレ管弦楽団の演奏で全曲続けて聴きましょう。〜音楽〜

今聴いたのは云々。今日はその前に云々と云々を聴きました。それじゃあ又、さよなら。