東洋文庫 長安城中の少年 清末封建家庭に生まれて 王独清 (1933)

著者の王独清は1898年陰暦8月16日長安で生まれる。父は官僚の一族であったが一度も仕官したことがなくて第三夫人までいる。独清は第二夫人の子でただ一人の男の子であるから大事にされたが第二夫人の楊は召使い同然の扱いを受け、時には第一夫人から棒で打たれ、間違いをしでかすと夫らから吊るし上げを食らうのである。幼児期はそういうのを見て育った。このモラハラ体質、男尊女卑は世界で見られる現象だが中国のはまた格別であることがここにも証明されている。

母は浙江省出身の南方系の美人で学問はなかったが独清に浪陶沙や声声漫などの詞曲を聞かせてくれたという。29歳で他界する。一方父については詩が作れ、画が描けて、学問も講ずる事が出来芸術家の素質があるなどと褒めている。また父は地方の有力者を招いて豪華な宴を開きもてなした。小間使いも多くおり宴の日には忙しく働いていたという。当然ヘマをすると厳しいお仕置きが来た。

独清は父に学問の手ほどきを受け四字鑑略から始めて自分では元曲、紅楼夢水滸伝を暗唱するまで読んだという。特に惹かれた本は楚辞であったという。独清は父の持っている絵具で絵を描いて遊んだという。「遠慮なく言っていい、私には絵の才能がある」と書いている。しかし何故かその後父に絵を描くのを禁止されている。幼児期を総括すると私は母性愛を受けた事がないと言い、父から受ける叱責は愛撫の二倍だったと言う。「僕、女の子になりたい、男はいやだな・・・・」と言ったという。父は強壮な体を持っていたが62歳で亡くなった。それからは第一夫人の専横的な振る舞いが始まったという。まず四書五経以外を読むのを禁じ、独清のやる事を当てつけだと言いお仕置き棒が飛んで来る。

やがて恐れていた辛亥革命が起こる。ある日の正午突然喊声と銃声が起こり町は革命軍に包囲され、城門が開かれると放火、略奪が始まる。それまでの支配者に変わって新しい支配者が現れる。都督の張鳳翽である。革命が起こると突然独清は婚約させられ学校に入れられる。三秦公学の中学二年に編入する。そこで独清は思う存分新聞を読んだという。その頃から独清は作家になろうという考えを持つようになった。だが学校内で教師数名の免職を要求する事件が起こり独清もそれに巻き込まれて学校を去ることになる。その頃家はとっくに無くなっており独清は長安の浮浪少年の一人となった。こうして王独清はごろつきと行動を共にするようになり自称革命家の道を歩んで行くのである。