東洋文庫 ベニョフスキー航海記 (1790)

ベニョフスキーは1746年に西スロヴァキアにあるヴェノヴォという村で生まれたハンガリー人である。1768年ロシアとポーランドの間に戦争がおこるとベニョフスキーはポーランド側に付き敗北する。1769年ロシア軍に捕らえられたベニョフスキーはカザンに送られる。逃亡を試みたが失敗し今度はカムチャッカのボリシェレツクに流刑となる。1769年12月のことである。ここで司令官の子弟の家庭教師をしていたベニョフスキーは1771年4月27日、70名の仲間とともに反乱を起こし司令官を惨殺しスビャトーイ・ピョートル号を奪って航海に出る。

本文を少し引用して紹介する。

1771年5月11日

ボルシャ港でコルヴェト艦スビャトーイ・ピョートル・イ・スビャトーイ・バーヴェル号に乗り、海上勤務の為に次の配置を行い、艦腹に砲門を二十開けさせた。大砲のうち十二門は木製であった。 私自身、ベニョフスキー伯爵、司令長官。フルシチョフ伯爵副司令官。以下略。

5月12日木曜

錨を揚げ、人質を釈放したのち港を出て南の方に向かった。北北西からのきわめて軽い風。その日はうすもやがかかり、ほとんど平穏、浅瀬に錨を下ろした。水深三尋四分の一から三尋半。荒い緑色がかった砂。四時に風が起こったので、出帆して、二つの浅瀬の間を通った。艦が浮氷にはまったので、それに大砲のたまを発射して破壊した。以下略。

なんだか安部公房の小説を読んでいるみたいだ。

7月30日、土曜

(日本に)上陸するとすぐ、私自身と仲間が坐るために敷物がしかれた。そのあとすぐ、茶と保存された果物が私に差し出された。それから輦台(れんだい)が持って来られ、それに乗ってわれわれは約四分の一リーグ運ばれ、あとには武装した部隊が続き、それは十三人の士官によって指揮されていた。われわれは広い庭の前に降ろされたが、その門のところに日本人の歩哨が二人立っていて、「ウリ・ウラン」と叫んだ。門を入るとすぐ、りっぱな着物を着た二人の紳士に迎えられたが、彼らはまずわれわれの老人に話しかけ、そののち三度頭を深く下げて私に挨拶した。以下略。

このあとベニョフスキーらの船は奄美大島、台湾を経てマカオに到着する。