東洋文庫 法顕伝(4世紀)・宋雲行紀(6世紀)

東晋時代の僧である法顕は399年慧景、道整、彗応、慧嵬らとともに長安を旅立った。天竺に律蔵を求める旅である。隴山を越え、乾帰国で夏坐(3ヶ月の坐禅)しさらに進み張掖鎮に至る。そこでも夏坐し敦煌に至る。ここには大きな防御設備(辺塞)がある。一と月留まったのち沙河を17日進み鄯善国に着くことができた。鄯善国の土地は痩せており住民は毛織物の中国服を着ている。僧侶は4千人ばかり居て小乗を学んでいる。また出家の人はみなインドの言語と文字を習っている。ここにひと月滞在し西北に15日進むと烏夷国(カラシャール)に至る。僧侶は4千人いて小乗学を学んでいる。教義、儀式は厳格に守られている。ここに二ヶ月滞在し資金の援助を受けて西南に35日進むと于闐国(ホータン)に到着した。ここは豊かな国で僧侶は数万人おり大乗を学んでいる。僧侶には国王より衆食が提供される。14もの大伽藍があり法顕らは行像という山車を見るために三ヶ月滞在した。25日進んで竭叉国( タシュクルガン)に至る。ここでは五年大会があり王と群臣が供養を行う。ここは山国で寒く麦が育つだけである。ここは葱嶺(パミール)の中央にありここを越えると草木果実がガラリと変わる。ここからひと月かかって葱嶺を越え北インドに入ることができた。西南方に15日進むとそこは断崖絶壁ばかりでやっとインダス川が見えてきた。川を渡ってウジャーナ国に至る。

ウジャーナ国はインドの北端の国でインド語を話し仏教が極めて盛んである。500もの僧伽藍があり小乗学を学んでいる。法顕らはここで夏坐したのちナガラハーラ国(今のジャララバード)に向かった。ここでの夏坐を終えると南下してスハタ国(今のSWAT地方)に至る。ここから東に5日進むとガンダーラ国(今のハシュトナガル)に至った。

宋雲行紀

518年北魏の僧、宋雲、恵生、法力らは太后の命を受け西域に経典を求める旅に出た。北魏の都、京師を出発し40日で赤嶺に至った。ここは北魏の西境で草木も生えていない。23日西に進んで吐谷渾国(青海付近)に至った。道中は非常に寒く風雪が小石を飛ばす有様だった。この国には文字があり衣服は北魏と同じである。西に3500里(約1400km)進むと鄯善城(今のチャルクリク)に至る。ここの城主は吐谷渾王の次男である。西に1640里(約650km)進むと左末城(今のチュルチェン)に至る。城中には3100戸ほどあり雨が降らないので水を引いて麦を作っている。また牛を使うことを知らない。西に1275里(約510km)で末城に至る。西に22里進むと捍マ城に至る。大寺には僧が三百人おり一丈六尺の金の仏像が東を向いて立っている。西に878里(約350km)行くと于闐国に至る。519年の7月29日ついに朱駒波国(今のカルガリクか)に入った。人民は山に住み五穀は非常に豊かで食事は麺類を食べ、屠殺を行わず自然死した動物の肉を食べる。5日進むと漢盤陀国の境界に入る。西に日進むと葱嶺山に入る。西に3日進むと鉢盂城に至る。この辺りはもうタシュクルガンに近い。さらに3日進むと不可依山(小パミール)に至った。そこは夏も冬も雪が積っている。ここからは断崖絶壁が続く険路で4日進むと山頂の漢盤陀国に到着する。ここから川は西へ流れる。九月中旬に鉢和国(ワハン渓谷)に入る。ここは甚だ寒く人々は毛織物を着ていて岩穴に住んでいる。この国の南の境界には大雪山ヒンドゥークシュ山脈)がある。

10月の初めエフタル国に至った。エフタルは四方の夷のうち最も強大であり仏法を信ぜず、殺生を行い器物には宝石製のものを用いる。フェルトの家に住み遊牧して生活している。北はチュルク、南はザーブリスタン、東は于闐国、西はペルシアまで支配が及び朝貢を受けている。王は錦衣を着け金の椅子に座っていた。宴会が開かれるが音楽は無い。11月の初め波知国に入った。国は狭く人々は山に住み物資、産業は窮乏している。11月中旬に賖弥国に入る。ここから葱嶺を抜け出ることになる。田畑は石の多い荒地で道が一本しか無くボロル国(今のキルギット)とウジャーナ国に行く道である。12月初めウジャーナ国に入った。