東洋文庫 日東壮遊歌 金仁謙(1764)

第11次朝鮮通信使節に書記として随行した金仁謙による随行記で全文ハングルで書かれているのが特徴である。

(1763年9月9日)英祖39年8月3日ソウルを出発。総勢484名、その内、両班は52名である。著者は57歳と高齢ながら宴会を楽しんだり妓生好きの兵房軍官をからかったりする。即興で詩を詠むのが仕事で時折命じられている。或る夜は妓生が床に入って待っていたのを追い返している。陸路を進んで行き8月22日に釜山に到着する。

釜山では物見遊山やら宴会を行い、随分ゆっくりしているようだ。著者はここで体調を崩すが海神祭を無事に終えると出航の日までまたまたゆっくりする。その間に各地からの支供を受ける。以下はその様子である。

9月29日釜山
明日は永川の支供である
通引、茶母も顔を出す
昌寧の官属らが 上房の支供に来ている
さらに十六人の衙引、通引 十五人の妓生、官婢が
雨の中をやって来たので 皆躍り上がって喜ぶ
(後略)

10月6日釜山を出港、釜山滞在は四十余日に及んだ。

10月7日佐須浦
初七日天気晴朗 船出にはもってこいだが
荷の検査が終わらないので 舵の修理かたがた
この地に泊まることになり 気分は晴れない
舵楼に上がり込み 三絃を高く掻き鳴らさせ
船将、典楽、馬上才に 対舞をさせると
無数の男女の倭人が 船でやって来て見物する
(後略)

天候不順のため府中まで行くのに随分かかっている。

10月27日
念7日、北風が吹き 夜明けに船出する
芳浦、鴨瀬、黒島を過ぎ 船頭浦を向こうに見て
府中へと入る 左岸を見渡せば
空と海が 茫々と 果てし無く続き
右岸には 奇岩怪石の数々が
幾重にも曲がって連なる
(後略)

11月3日府中
初三日、対馬の島主が 裁判を遣わして
首訳を頼んで 我らに会いたいと言ってくるが
亥年(1719年)使行の折 拝礼の手順でいさかいがあり
その後は会ったことがないので 病気と称して拒否する
(後略)

これは海游録に書いてあった事件のことである。

一月一日赤間関〔下関〕 庚申の年(1764年)正月初一日 赤間関に泊まる
食後、正史が 上中官をお集めになり
宴を催されたので 夜更けまでこれを楽しむ
船房への帰途 中下官の宿坊となる寺を見る
その構えは壮大 景観もまた優れている
竹と柏が多い中 蘇鉄という名の木があるが
姿形も珍しい上 樹が枯れた時に
金釘を打ち込んでやると 蘇生するとのことである

兵庫では豪華絢爛な船を見て驚き、河内では精巧な水車を見て驚いている。京都ではある種の感慨を抱いている。

1月28日倭城(京都)

(前略)惜しんであまりあることは
この豊かな金城湯池倭人の所有するところとなり
帝だ皇だと称し 子々孫々に伝えられていることである
この犬にも等しい輩を 皆ことごとく掃討し
百里六十州を 朝鮮の国土とし
朝鮮王の徳をもって 礼節の国にしたいものだ
(後略)

2月3日名古屋
(前略)六里ほどで名古屋到着 初更の過ぎる頃であった
その豪華壮麗なこと 大阪城と変わりない
夜に入り 灯火が暗く よくは見えぬが
山川広闊にして 人口の多さ
田地の肥沃 家々の贅沢な造り
沿路随一といえる 中原にも見当たらないであろう

(中略)
人々の容姿のすぐれていることも 沿路随一である
わけても女人が 皆とびぬけて美しい
明星のような瞳 朱砂の唇
白玉の歯 峨の眉
茅花(つばな)の手 蝉の額
氷を刻んだようであり 雪でしつらえたようでもある
人の血肉でもって あのように美しくなるものだろうか
(後略)

2月16日江戸
十六日、雨支度で 江戸に入る
左側には家が連なり 右側は大海にのぞむ
見渡す限り山はなく 沃野千里をなしている
楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい 男女の華やかさ
城壁の整然たる様 橋や船に至るまで
大阪城、西京より 三倍は勝って見える
(中略)
三里ばかりの間は 人の群れで埋め尽くされ
その数ざっと数えても 百万にはのぼりそうだ
女人のあでやかなること 名古屋に匹敵する
(後略)

江戸では儒者と歓談したり、国書を伝達する仕事をする。帰りには三島で水車を仔細に観察している。4月7日には大阪で上房執事の崔天宗が対馬藩士鈴木伝蔵に殺傷される事件が起こっている。かなりゴタゴタしたが鈴木伝蔵を処刑して事は納まった。7月8日著者は無事にソウルに到着する。ほぼ1年の長旅だった。