東洋文庫 マテオ・リッチ伝 (1969)

著者の平川祐弘氏は東大教養学部出身の比較文化学者で主に西洋の文献を元にしてこの書を著したと思われる。ここでは全3巻のうち第1巻の要約を記す。

マテオ・リッチは1552年イタリアのマルケ地方に生まれた。巨匠ラファエロサン・ピエトロ寺院の設計者ブラマンテも同地の出身である。リッチはこの地でルネサンス文化の薫陶を受けて育つ。一方イエズス会は1540年教皇により公許され、創立者イグナチスロヨラにより集められた科学知識を持つ精鋭を布教の為国外に派遣する事業に乗り出すことになる。ちなみに上智大学イエズス会が設立した大学である。

マテオ・リッチはマチェラータの中学校で学びローマに出て大学に入学する。1571年にはイエズス会に入会する。彼はラテン語ギリシャ語、スペイン語ポルトガル語を習得した秀才で後に支那語も操るようになる。

1578年3月マテオ・リッチらを乗せた船はリスボンを出港し、喜望峰モザンビークを経て六ヶ月後ゴアに到着する。回教徒の支配下にあったゴアは1510年ポルトガルのアルブケルケにより攻撃が開始され、結局回教徒は皆殺し、ヒンズー教徒の総督が置かれ、ゴアはポルトガル支配下に入る。出典は不明だがアルブケルケがマラバール海岸を制圧する際に捕虜の手足を切って砲弾の形にしたものを沿岸都市に降らせてパニックに陥らせたとある。

フランシス・ザビエルの悲願である支那での布教の為に巡察使ヴァリリャーノは弟子のルッジェーリに白羽を立てマカオに送り込んでいた。その頃ゴアの神学校(名称サンタ・フェ、後にコレジオ・サン・パオロ)での仕事に嫌気がさしていたリッチはルッジェーリの推薦で1582年8月マカオに到着し早速支那語を学習する。この時リッチは天正遣欧使節の日本人と顔を合わせている。この頃ポルトガルマカオを拠点にしていたが支那に入ることは許されず年二回ほど広東に上陸して交易するだけであった。ルッジェーリとリッチは目的達成のため支那語の習得を急ぐ必要があった。

1582年12月にマカオの総督に呼ばれたルッジェーリはフランチェスコ・パジオとともに時計とプリズムを土産に持って輩慶に赴く。そこでは色々あったが結局ルッジェーリとリッチはそこに1583年から六年間滞在することができた。1589年には韶州に移り引き続き支那の言葉と文化を学んでいる。当地でリッチは盗賊に襲われ負傷している。1595年になりやっと北京を目指して旅立つことになる。日本では住まわせてくれて布教もさせてくれたのとは大違いの厳しさである。南京への移住が失敗すると南昌で活動する。ここでリッチは名声を博することになる。記憶術や自然科学の知識を披露したのである。リッチが王尚書の手引きで一回目の北京入りを果たしたのは1598年のことであった。そして1601年5月北京居住の許可を得ることができたのである。後に永住許可がおりたのは天文学の知識が誰よりも正確だったからとされている。

第二巻へ続くが以下省略