東洋文庫 明夷待訪録 (1663)

著者である黄宗羲は明が滅びた時の遺臣であり大学者である。清朝政府が政治を行う様になると郷里に帰り日夜読書に努め書物を執筆し教育を行なった。明夷待訪録はたとえ暗君が君臨する世の中でもいずれは明君が現れ自分に教えを請いにくる事を期して記した政治の書である。

君主、臣下、法制、宰相、学校、官吏、国都、辺境、田制、兵制、財政、胥吏、宦官について思うところを論じている。論調は保守的であまり賢いとは思えない主張が見られる様である。一部を抜粋する。

財政論

後世の聖王がもし天下の安富を欲するならば、かならずや金銀を廃止するであろう。

(略)

金銀を廃止するならば、その利益が七つある。粟帛などは小民の力で自家生産できるから、どの家でも十分に持てる。これが一である。銭を鋳て有無を通ずるならば、どしどし鋳造され、貨幣に欠乏がない。これが二である。金銀を蓄えなかったら、貧富の甚だしいへだたりが無くなる。これが三である。てがるに持ち運びするのに不便だから、民はその郷里を去ることをはばかる。これが四である。官吏の袖の下がかくしにくい。これが五である。盗賊が金庫を開いて盗んでも、重い物を背負っているから追跡しやすい。これが六である。銅銭と紙幣との交流の路が開ける。これが七である。しかし必ず禁令を設けるべきで、盗掘者は死刑にし、金銀で交易するものは、貨幣私鋳罪で処罰してはじめてうまくゆく。

宦官論

宦官が毒薬猛獣のようであることは、数千年以来、人々がみな知っている。それにもかかわらず、ついに彼らに腹わたを裂かれ首をくじかれる目に会ったのはなにゆえであるか。なんとこれをおさえる方法がなかったのであろうか。それは君主の多欲が原因になっているのである。

(略)

かりに鄭玄の説のようだとすれば、王のきさきが百二十人で、きさきの下にさらに侍従がいるから、すると宦官で守衛服役にあたるものは、いきおい数千人でなければならない。

(略)

わたくしの思うのに、君主たるものは、三夫人以外は、一切廃止すべきである。このようにするならば、宦官でこき使いの仕事に供されるものは、数十人に過ぎないでそれで十分である。