東洋文庫 南洋探検実記 (1892)

井上外務卿は日本人殺戮事件の調査の為外務省の職員をマーシャル群島に派遣することにした。その時の辞令である。

御用掛  後藤猛太郎

今般濠斯太剌利亜地方へ派遣申付候事

明治一七年七月二十八日

かくして後藤猛太郎及び本書の著者である鈴木経勲ら一行は、九月一日英国捕鯨船エーダ号に乗船しマーシャル群島に向けて出発する。

本文を一部紹介する。

マーシャル群島王はその名をラーボンと呼び、肥大にして身の丈ほとんど七尺、惣身入墨ならざるはなく、人となり温和にして剛毅果断なり。然れども貪慾度なく、驕限りなし。全島土人の所有物は皆ことごとく己の所有と定め、己の欲するものは妻女器物の別なく左右に命じてこれを土民より献ぜしめ、命に応ぜざる者はすなわちこれを殺し、これを奪う。ゆえに土民もし王命とあれば、もとより毫厘も惜しむ色を現さず、ただちに命に応じ、これを献ずるをもって普通の事と観念す。 (略)

現地人に英語を解する者が2名いるのでこの様に詳しい事が書けるのである。その2名は海賊に拉致されたのち運良く帰還した者である。

地誌、物産、事件の概要を調べ終わり翌年一月に一行は帰国する。途中暴風雨に逢いコプラが船底に流出し目をやられた者が続出した。

1889年軍艦金剛、比叡による南洋への遠洋試航に添乗した筆者はハワイ島サモア島、フィジー島を探検し調査報告を書き上げる。ハワイ島の一部を紹介する。

クインス病院

同七日快晴。クインス病院を訪う。該院は王宮の東北半哩の所に在りて、面積五丁歩もあるべき大園の中央に設けたる華美なる二層楼なり。屋内の区画病室の配置等万般の事すこぶる整頓し居る事なるが、とくに患者の取り扱いに至りては、すこぶる懇切にして、食料のごときも大に注意し居るもののごとし。余が巡見せし時日本人三名入院し居りしが、いずれも米粥ならびに煮魚など日本流の食料を給さるる由にて、その深切を喜び居れり。余はそれよりカメハメハ学校に至る。本校はオアフ島における学校中最大なるものにして、教課は我国の中学課程とぼぼ相似たり。余同校に至りし際年齢一七八歳なる二人の土人衆生徒の中より出でて来たり、日本語をもって余に説話したりしが、その語調音節まったく邦人に異らざれば、余は怪しんでこれを尋ねしに、二人とも先年日本に渡航し、久しく学習院に在りて就学し、すでに日本外史などの素読等も終わりし由にて、一人はジェームスと云い、一人はアイジャックと称せり。(略)

ハワイはこの後1897年に米国に併合されている。