東洋文庫 看羊録 (1658)

著者の姜沆は慶長の役で捕虜になり1557年〜1560年の間日本に幽閉されていたが、無事に帰国しこの書を著す。東洋文庫では日東壮遊歌 (1764)、海游録(1719)という江戸時代の日本の事が書かれたものがあるがこれは安土桃山時代と重なる貴重な報告書である。時系列を追って書くと大変長くなるので、まず怠惰な両班の有様がよくわかる文を紹介する。

(略) わたしの見ますところでは、わが国は平素より兵士を養成せず、平素より民も教化せず、壬申以後、農民をかき集めて戦陣に赴かせています。やや財力があって恒産のある者は、賄賂で免れてしまい、貧民でどこにも頼れない者だけが守備につとめます。しかも、将は常兵を持たず、兵士には定まった将がなく、一邑の民が、半ばは巡察使に属し、半ばは節度使に属しています。(略)将と卒とがしばしば易るものですから、統率に暇とてなく、体面も何もかまうことなく様にもなりません。一体どうして死地に馳せ集まり、敵人の死命を制することができましょうか。 (略)

次に豊臣秀吉の事を記した文を紹介する。以下一部改変あり。

賊魁秀吉は、尾張州中村郷の人である。嘉靖丙申(1536年)に生まれた。容貌が醜く、身体も短小で、様子が猿のようであったので結局猿を幼名とした。(略)父の家は元来貧賤で、農家に雇われてどうにかかたつきをたてていた。壮年になって自分から奮発し、信長の奴隷となったが、これといってぬきんでるところもないまま、関東に逃走して数年を過ごし、また戻って自首した。信長はその罪を許し、もとどおりに使った。秀吉は一心に奉公し、風雨、昼夜もいとわなかった。(略)信長が直接北州の叛者を撃つに及ぶや、秀吉は槍をふるって突闘し、向かうところの敵を打ちなびかせた。信長は播磨州の姫路城を割き与え、その功を賞した。(略)

姜沆は明国の使者がいると聞くと早速行動を開始する。

(略) 私は、そういった便宜があったので、明国の使者であった茅国科、王建功などが堺の館に来在していると聞き、申継李と共に往ってその門を叩き、門番に賂を使って入ることができた。(略)わたしは涙ながらにたのんだ。 「聞くところによれば、倭奴は船乗らの準備も整え、もう出発するばかりになっているとのことですが、どうか船中の一卒にでも加えてください。かないますならば故国で刑罰をうけたいと思っているのです」 明将らは大変同情し、次のように聞いてくれた。 「公がいるのは何という倭のところですか」 「藤堂高虎です」と答えたところ、明将らは、 「私たちが家康を通じてあなたを送らせるようにしてみましょう」と言ってくれた。ところが申継李はもともと軽薄なところがあって大声で叫んだ。 「秀吉は死にました。倭国はやがて大乱になりましょう。倭賊もやがて一人残らず死んでしまいましょう。」 これを聞いた対馬の通訳は、わが国の言語に通暁していたので、監視役の頭である長右衛門にあわてて報告した。長右衛門は小西行長の兄である。私たちが門を出るのを待ち、縛って別室に入れ申継李もひっくくって、他の場所に押し込んだ。夕方には車裂きの刑に処してさらすという。明将が再三にわたって弁明してくれた。 「彼は、やって来はしたが、ただ老父の消息を聞いただけである。他に何か意図があったわけではない」 長右衛門はそのたのみに反対できず、縛を解いて帰してくれた。

ここでの中国人と両班の振る舞いは対照的である。