満洲難民 (2015)

著者の井上卓弥氏は毎日新聞社の記者で1965年生まれである。祖父一家が旧満洲からの引揚げ者である。これは複数の引揚げ者の手記を基にして記した本になる。要点のみを抽出する。

1945年8月9日ソ連参戦す。8月11日夜、祖母井上喜代は四人の子供を連れて新京駅に向かう。夫の寅吉はすでに徴兵されて北方に駆り出されていた。12日の午後には無蓋列車に乗った一行は南に向かう。翌朝には郭山に着いた。ここで1000人余りの疎開者は日本人会を結成し疎開生活を始める事になる。

喜代は山形の小学校教員だったが寅吉と職場結婚し家族で新京にやってきたという。11月19日、まず102名が満洲へ出発。どうやら新京の方が復興していて生活が成り立つという情報のためである。12月、80名が列車に乗り北上する。この一行は安東で降ろされ難民になったと噂されているが事実はよくわからない。1946年2月半ば、寅吉から手紙が届く。寅吉は新京で無事で居るという。しかも安東まで迎えに来ているという。2月末、310人が二班に分かれて北上する。2月23日喜代と長女の泰子、長男の昌平、末弟の洋一が第二班として午前7時半の郭山発の列車に乗り込んだ。

郭山に残った484人は窮乏を極め次々と病気で死んでゆく。情勢の変化により北上が無理になった今、このまま死ぬよりは春になったらなんとか38度線を越えようと考える人が増えて来たという。350人を3班に分けて南下する事になった。6月10日第一班の156人が南下。幸いなことにトラックに乗ることができたので6月11日に38度線を突破し開城に到着する。6月11日に第二班の77人が出発。ところが新幕で足止めを食う。12日に第三班131人が出発した。ところがこれも新幕で足止めを食う。両班は徒歩、牛車、バス、トラックで38度線を目指すが、ソ連軍による連行、朝鮮人による襲撃に悩まされ行き倒れる者も多かった。結局200人超が南鮮にたどり着いた。郭山に残った25名については記述が曖昧である。

新京にたどり着いた人たちは1946年9月から始まった日本人送還計画(マーシャル、張郡、周恩来によって協議)により安全に日本に帰国することができたわけである。一番割りを食ったのは北朝鮮の領域に疎開して南進を強行した人たちでその実態は藤原ていのベストセラー「流れる星は生きている(1949)」において詳説されている。

本書は群像ドキュメンタリー形式で内容が掴みにくい上に切り込みが甘いという印象を受けた。