元高崎藩主で華族の大河内輝声(てるね)という人が東京に来ている中国人との交遊を通じて筆談の文書を残している。これはその日本語訳である。一部を抜粋して紹介する。漢字とかなの表記は改変した。
明治10年12月23日浅草凌雲閣にて
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輝声 私は姓は源、名は輝声、字は子斌、号は桂閣、位は五位で華族です。どうか今後ともお見知りおき下さって、長くお付き合い願いたいと思います。今日の奇遇は三生の幸とでも申しましょうか。
梅史(公使随員) わたくしは前から、お国の源氏が名家であることを、聞き知っております。今日お会いできたことは、とてもうれしい。ただゆっくりはしていられないのが残念です。わたくしは三年はこちらに居りますので、これからずっとお目にかかれましょう。
(略)
(略)
輝声 あなたの顔には刀傷がありますね。何でも洪秀全の乱に、あの傷を受けたとか・・・・・その頃の官職は?
桼園(詩文の先生) 長髪賊の騒動の時、私は郷団を作って防ぎましたが、謀が不味くて負けました。この傷はその時のものです。
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輝声 「支那」という字のおこりはどうですか?
桼園 天竺でおこりました。中華の皇帝に上表するとき、「支那皇帝」云々としました。その時中国は唐の時代です。『佩文韻府』に書いてあります。
(略)
輝声の詩文の腕前を見てみよう。前の人の韻を踏んで詠んで行く。
如章(清国駐日公使)
十里春風爛漫開
墨川東岸雪成堆
當筵莫惜詩兼酒
如此花時我正來
桼園
千紅萬紫一齊開
艶似雲蒸叉雪堆
墨水江邊無限好
游人盡是看花來
輝声
絶勝西園雅會開
春花爛漫似雪堆
櫻堤休作桃源認
爲賦淵明歸去來
(略)