東洋文庫 騎馬民族史2 正史北狄伝 (7〜11世紀)

鉄勒伝

これは隋書、旧唐書からそれぞれの鉄勒伝を抜粋したもので、それの現代語訳及び訳注である。鉄勒は中国北方に広く住んでいたトルコ系遊牧民で居住地は東はバイカル湖南方から西はカスピ海北方に至り、この中から出てきたのが突厥である。

以下引用

隋書鉄勒伝

(略)

これらの氏族、部族はそれぞれ異なっているが、これらを鉄勒と総称する。〔鉄勒には〕みな、君長はおらず、東西の両突厥に分属している。〔鉄勒は〕一定の居住地を持たず、水草のある場所を求めて移動する。人間の性質は残忍であって、騎馬や射術が巧みである。かれらはひじょうに貪欲であって、侵略をおこなって生計をたてている。西方辺境の近くにいる者は、少しばかり農耕を営んでいる。かれらには牛や羊は多くいるが、馬は少ない。 (略)

旧唐書鉄勒伝

(略)

〔唐の〕太宗は、その〔夷男の勢力が〕強盛なため、〔唐の〕災いとなるかもしれないと心配して、〔貞観〕十二年(638)に〔夷男に〕使者を派遣し、礼儀を整えて勅書を下してその二子をそれぞれ小可汗に任命し、外面では優遇を示したが、実際は彼らの勢力を分割しようとしたのである。たまたま、〔唐の〕朝廷は〔突厥の〕李思摩を立てて可汗とし、その部民を漠南の地におらせた。夷男は心中で李思摩を憎み、非常に不愉快に思った。 (略)

貞観〕十七年(643)に〔太宗は〕その〔薛延陀の〕使者に対し、「われわれ父子はいっしょに東方の高麗を征伐しに行くが、なんじわが国の辺境に侵入できるならば、やって来るがよいと、なんじの可汗に伝えよ」と言った。これに対して、夷男は使者を〔唐に〕派遣して謝罪し、また、「軍隊を出して遠征軍を助けましょう」と答えた。太宗は手厚い詔をくだして、これに答礼するとともに、援兵の件はことわった。その年の冬に、太宗は、遼東の諸城を陥れ、駐蹕陣を陥れた。高麗の莫離支はひそかに靺鞨をそそのかして、夷男をたぶらかし、まどわせ、手厚い賄賂をくらわせたが、〔唐を恐れていた〕夷男の心はちぢみあがり、あえて妄動しようとしなかった。

(略)

引用終わり

この後夷男が他界すると夷男の子が兄を殺し可汗になる。可汗は太宗が遼東にいるのをみて兵を出すが破れ、一族は全滅し残余の部衆5、6万人は西域に逃走した。太宗は江夏王道宗を差し向け薛延陀の大軍を撃破し回紇と和平を結ぶ。これにより北方民族はすべて唐の支配下に入る。

突厥伝、西突厥伝、回鶻伝については省略する。