東洋文庫 塵壺 河合継之助日記 (1858)

本書は越後国、長岡藩士である河合継之助が三十三歳の時に記した旅日記である。本文の一部を紹介する。

安政5年(1858年)6月7日
(略)
品川に二艘の異船あり。何れも城のごとき有様、一艘の船、炮発丸、きみ好き事なり。川崎にて昼食を食す。神奈川へ八つ頃到り、船に乗り、横浜へ行く。
新たに出来し家にて、色々店を広げ、中にも目立つは塗物店、其の結構、都会にもなき処なり。未だ普請も出来上がらず、銀銭の価も定らざる故、交易も墓々しからず。出来揚がりに成らば、嘸ぞ立派に相い成る可し。(略)》


《6月9日

鎌倉は聞きしに勝る旧跡、感ずるに余りあり。案内を頼み、大概を尽くす。八幡前にて略図を求む。追て「鎌倉志」を読み、楽しむ可し。(略)風ありて、望遠鏡もきかざれ共、かすかに城ヶ島も見え、右には江ノ島を見る。好風景、愛す可し。》

《6月19日

(略)笠寺「観音堂」を右に見、少し行く程に、已に名古屋の天守閣見ゆ。宮に到り、熱田へ参詣す。佐久間勝之が奉納の石灯籠、此の如く大なる者、始めて見る。年号月日、歴然たり。
これより家続にて名古屋へ到る。門跡は大なり。本町に宿を取り、城の外郭より左へ廻り、新馬場と云う所にて天守を見る。黄金の光、聞きしに勝る事なり。》

7月17日、松山藩岡山県高梁市)に着き、しばらくの間、山田方谷の元で陽明学を学ぶ。

《9月22日

朝五ツ頃、尾道へ着く。ここは芸州候の領分なり。云うにはあらざれ共、家数も多く、往来の船の通路故、賑やかなり。これより三原へ、本郷の庄屋、舟を仕立て、乗せ呉れける故、諸々見物して、四ツ過ぎ頃、小船に乗りて、漕ぎ行くに、風は好く、船は早し。海岸、山陽往来の並木、糸崎の八幡社、左の島々、風景の好きには楽しみける。(略)》

《10月4日

昼後、佐賀へ着く。(略)唐物店も多くあり、少し寄りて、兼て聞く「反射炉」を見る。尤も内へ入るを禁ず。番所あり、それへ行き、頼みければ、番の足軽云う、
「其の手続にて、御修行の為とあるなれば、御覧出来るけれども、私には一切ならず、御気の毒。」
と、断わりけり。外より見るに、其の形、高サ八九間もあらんか、鉄のタガ、石灰塗り、水車にてキリを入れ、其の音、頻りなり。一本の軸に、車二ツ仕掛く。軸は鉄か、車の拵方など、丁寧のものなり。(略)》

筆者はこの後長崎に遊んだ後、松山藩に戻っている。