失われた時を求めて (122)

プルーストはパリの現況を綴る。社交界における男性の数が減り、ヴェルデュラン夫人もなんとかしようとするがどうにもならない。シャリュルス氏はヴェルデュラン夫人と仲たがいをしているが、社交界における評判も地に落ちている。悪癖の噂に加えてプロイセン人だのスパイだのと言いつのる人も出てきた。やがてコタールが亡くなりヴェルデュラン氏も亡くなった。この事を悲しんだのは画家のエルスチールである。以下引用文。(吉川一義訳)

《(略)エルスチールは、芸術を支持しその真正さを保証してくれはするが滅びやすい社会的背景ーーその一部をなす衣服の流行と同じくたちまち時代遅れになる社会的背景ーーの最後の名残のひとつが、ヴェルデュラン氏とともに消えてゆくのを見る想いがしたのである。大革命は十八世紀のエレガンスを残らず破壊して雅なる宴の画家を悲しませたにちがいなく、モンマルトルやムーラン・ド・ラ・ギャレットが消滅すればルノワールを悲嘆に暮れさせるにちがいないが、それと同様である。(略)それゆえエルスチールは、ヴェルデュラン氏が亡くなったとき、何年も前から仲違いしていたにもかかわらず、自分がいっそう孤独になった気がしたのだ。それはエルスチールにとって、自分の作品の美の一部が、この世に存在していたその美をめぐるいくつかの意識とともに消滅する事態だったのである。》

Uボートによって撃沈されたルシタニア号の事も述べられている。以下引用文。

《夫人がこの最初のクロワッサンを口にしたのは、新聞各紙がルシタニア号の難破を報じた朝のことである。クロワッサンをカフェオレのなかに浸しては食べる手を休めることなく、もう一方の手で新聞を操って大きく開きながら、夫人は言った、「なんて恐ろしいことでしょう!どんなにむごい惨事でも、こんな恐ろしい結果にはならないわ。」しかしすべての溺死者の死も、夫人の目には十億分の一に縮小されて見えたにちがいない。なぜなら、口いっぱいに頬張ったままそんな痛ましい考えをめぐらしながらも、夫人の顔に浮かんでいた表情は 、偏頭痛によく効くというクロワッサンの風味がもたらしたものであろう、むしろ甘美な満足の表情だったからである。》

このクロワッサン療法はコタールの処方である。