東洋文庫 幕末外交談 (1898)

本書は幕僚だった田辺太一が、職務上外交の事実に通暁している立場にあったことから晩年この書を編するに及んだものである。著者はいわゆる神奈川条約、下田条約について簡潔だが正確に述べた後このように記している。(東洋文庫に収載するにあたって現代文に直してある。)

《開国は歴史の必然

この条約はもちろん、万国共通の公議にもとづいて至平至和の盟約をむすんだもので、少しも懐疑すべき性質のものもではない。 しかし、当時アメリカ側には咆哮恫喝の態度があり、わが方には畏懼恐惶の様子が見られた。 そのため、なんとなく、この条約は強迫によって結ばれた観があったので、国内の人心がおさまらず、そのため後年、攘夷の議論が紛々として四方に起こる情勢を招いた。幕府がついに政権を失うにいたったのは、実にここに原因したのである。》

またこのように記している。

《幕府断を欠く

こうなっては、わが国の旧法(鎖国の法令)は守り得ず、旧習に従うことが不可能であることは、少しく思慮をめぐらせば、さほど理解しがたいことではない。まして程近いわが西隣の清国は、鴉片のことから英国と開戦し、そのために東南沿海の地を劫掠されて、結局地を割いて和を乞うにたったことは、現に耳に聞くところである。》

《打払令の沿革

思うに 徳川氏の始めにあっては、東照公〔家康〕が海外通商に力をいたしたが、大猷公〔三代将軍家光〕は鎖国の制度をさだめた。その後、寛政年間にややその禁をゆるめたが、文政八年〔一八二五年〕にはまたもその旧に復して、無二念打払うべしという令が出されたのである。 寛政の令は、徳川政権時代の第一の名宰相と称せられる白河候〔松平越中守定信、楽翁と号した〕の議に出たものであるという。この時代は、英人がまさにインドを経営している最中であった。さすがは、世人が伝誦した宝船の詠歌の主だけあって、海外の動静を度外視しなかった遠慮のほどがしのばれる。 文政八年に打払の旧に復したのは、水野出羽守〔老中水野忠成〕が将軍の寵をほしいままにして、威権を弄し(文政四年に、出羽守に一万石加増の特典があったことから見ても、君寵を得て、権勢がさかんであったことがわかる)、文恭公〔十一代将軍家斉〕の末年にあたって、悪政がようやく行われるようになった時代であるから、いたずらに太平をよそおい、無事を喜ぶ気持ちから出たものであるということは明らかである。》

《英邁阿部正弘

この当時、幕府の執政者であったのが、実に阿部伊勢守正弘であった。 正弘は若くして老中となり、水野越前守が急激な弊政改革による酷薄な施政で、人心を失った後をうけ、寛大な政治で民望を得たばかりでなく、当時親藩では水戸老候〔斉昭〕、強藩では島津候〔斉彬〕などと交際して、好感を持たれていた。また、官吏登庸の旧格をやぶって、有為の材を起用したり、はじめて洋式の大船を模造し、またオランダ人を招聘して、航海の術を伝習したり、わが国に初めて海軍をつくったりした。また、蕃書調所を設置して、洋学を研究させ、講武所を設けて、ようやく兵制の改革に着手するなど、みな当面の急務を促進して、時勢に適応する政治を行った。》

著者はこの阿部正弘に一刀両断の勇がなかったことを惜しんでいるがこう記している。

《世に伝えるところによると、正弘は人にこう語ったという。アメリカの使節が来ることは、前からわかっていた。そこで、あらかじめ計画する暇はあったのだが、これを事前にはかろうとすると、衆議はただ物好きな人間として、これを排斥したので、残念ながら謀ることができなかったと。》

優秀な幕僚だった著者は幕末の混乱の元をこう見ている。

《責任逃れの奏上と諮問

これによって推察すれば、ペリーが再来したとき幕府に定見と定力とがあったならば、速やかに彼の請いを容れて、開国の国是をさだめ、天下の人心を一新させることは、一紙の布令をもって成しとげることができたかもしれない。(略)幕府は腐儒俗吏の論に動かされて、みずからこれを断行するだけの勇気がなく、これを衆議に問うてからこれを言いださせようと思った。そこで、我慢(我意を張る)にも自己の強をよそおい、未練にも自己の責をのがれようとして、朝廷奏上、諸藩諮問という、善巧の方便をこころみようとしたようだ。(略)

退攘夷類

朝廷に奏上した結果は、七社七寺の御祈祷となり、宣命(勅命宣布の文)の面に、はじめて退攘夷類の四字を見るにいたった。(略)》