東洋文庫 シーボルト先生1 その生涯及び功績 (1926)

本書はかの高名な精神科医呉秀三によるものである。序文および冒頭部は飛ばして、1823年10月16日付けのシーボルトから叔父に宛てた書簡を紹介する。

『私儀無事に日本に到着仕候て、万有学・医学の広き領域に於いて怠ることなく学問に従事致し、私生涯の最も愉快なる月日を送り居申候。かくて兼て本懐の通り世界に珍しき此邦をば研究すること相成申候。明年は日本の内科・外科・産科の状況につきて興味ある報告を御賢覧に供ふべく、なほ此後は引続き毎年左様可レ致と存候。その用意の為め私は欧羅巴より一人の画家を待受居候なおHistoriare naturalis in Japonia statu etc. と云ふ論文を書き上げ申候(1823年11月11日脱稿)。又今迄日本のことを書きし書物になき此国特産の動物二十五種のことを書上げ申候。ーー数多の動物学的発見をなし候へど、又それにも増して植物学的発見をも遂げ申候。ーー当地にて毎週和蘭語にて万有学・医学の講義を致居候。六年以内には当地を立去らぬ決心に御座候。日本につき十分に記載し、その博物場と植物譜とを作り出さゞる以前には決して当地を立ち去らぬ積に御座候。かくしてこそ我家名を欧羅巴に掲げ得ることあるべけれと存候』

シーボルトの心の内がほぼその通り書かれているのだろう。次に『15 日本人の援助。医療及び教授 』より本文を紹介する。

《(略)シーボルト先生は出島にありて、その職業柄より云へば、専ら島中なる和蘭人の病気を診療治療するのみにてその他に為すべきこととてはあらぬ筈なれど、その間々には我熱心なる蘭学者・医学者のために知らざることを教へ、解し難きことを説明するところにあり。又その人々を仲介として病に苦み労に悩む徒を診療治療して、なるべく多く我邦人に会合し又交際せんと勉めしなり。》

《鳴滝の校舎は、元諏訪神社宮司青木永章の別荘にして長崎村一二ヶ郷の一ツなる中川郷にあり。その地方、北には蘭船の入港に狼烟を打挙げといふ烽火山あり。南には近く長崎の開基者たる長崎小太郎貞綱の鶴ノ城の古址を負ひて其麓にあり。》

シーボルトの主な仕事は診療と植物採集、動物の剥製作成であった。このほのぼの感やその後の劇的な展開があることからこれは大河ドラマに好適な素材ではないだろうか。