東洋文庫 中国古代寓話集 (1968)

本書は中国思想史の研究家後藤基巳氏による編纂もので日本語訳はご本人のものかと思われる。荘子列子、戦国策、韓非子呂氏春秋などからの抜粋である。

韓非子篇から本文を紹介する。

《書物を焼く

王寿が書物を背負って旅に出て、周の都への道すがら、徐馮という隠士にあうと、徐馮は言った。 「すべて事は人のしわざであり、しわざはその時々に応じてなされるのだから、知者にはきめられた事というものはない。また書物は人のことばであり、ことばは人の知から生まれるのだから、知者は書物などしまいこむことをしない。それなのにお前はなんで書物など背負いこんで歩いているのか?」それを聞くと王寿は、書物を焼きすて、小踊りして喜んだ。

つまり、ほんとうの知恵のある人は、ことばにたよって教えることはせず、書物を箱にたくわえることもしない。世間の人はこれらのことを見すごしているが、王寿はその道理にたち返ったわけであり、学ばぬことを学んだともいえる。だから『学ばぬことを学び、衆人の見すごしたところにたちもどれ』(「老子」第六十四章)といわれる。(喩老)》

《蚤・虱のたぐい

子圉(宋の臣)が孔子を宋の太宰(宰相)に引きあわせた。孔子が退出してから、いまの客人はいかがでしたかとたずねると、太宰は答えた。

孔子に会ってから、きみを見ると、まるで蚤か虱のようにくだらなく見える。わたしはこれからあのかたをご主君にお引きあわせしようとおもう」

子圉は孔子が宋君に重んじられることを恐れて、太宰にこう言った。

「子圉は孔子が宋君に会われたら、こんどは宋君もあなたを蚤か虱のようにごらんになりますよ」

そこで太宰は孔子を宋君に引きあわせることをやめてしまった。(説林・上)》

これだけでは例数が少なく何とも言えないが、これらの文章から読み取れる生産性の無さ、虚無感は寓話の目指すものとは違う気がする。