東洋文庫 青木周蔵自伝

青木周蔵長州藩出身のいわゆる平民であり自己の教育環境に腐心した様子が書かれている。

《橋下氏は偶然、予に語りて曰く、予の親戚に福沢諭吉なる者あり。今回、幕府より北米合衆国に派遣せらるる使節に随ひ、同国に赴くこととなりたるを以て、告別の為め、現に中津に在住する其の母に一書を贈り、添ふるに金百両及び自己の写真を以てしたり。

と云ふ。予は未だ曽て写真なるものを見たることあらざれば、予は、喜んで随行を請ひ、相伴ふて福沢氏の宅に至りたるに、福沢氏の母は諭吉氏の書翰を橋本氏に示し、写真は予に一見せしめたり。

(略)其の後、知人に就て福沢氏の従来の経歴を質問せるに、彼は中津藩老、奥平壱岐氏に随従して、長崎に派遣されたる留学生なりしが、事故に依り帰国の途中、脱走して大阪に至り、緒方洪庵の門に入りて蘭学を修め、終に塾頭となり、後、更に江戸に遊学して英書を修めたることを知り得たり。 此の時、予は、福沢氏こそ我が学ぶべき人なり。福沢氏の為せし修学の方針に随ひて努力せば、必ず目的を達すべしと信じたり。

(略)以上三人の外、尚ほ蘭方医ありて、自宅或は藩校に於て蘭書の翻訳書たる『気海観瀾』『医範堤綱』等に依り、蘭国の学術、特に主として物理学及び医学の階梯を講習せしに由り、予も亦、講習生の伍伴に入り泰西学術に関し少しく知識を増進したると同時に、漢学を以てしては到底将来の活世界に処する能わざるを悟り、今後は一意専心、蘭学を研究すべき決心を為すに至れり。》

青木周蔵まだ齢19の頃の話である。そして24歳に至ってやっと念願のプロシア留学の途に着き31歳で一旦帰国する。主に外交官として活躍し、貴族の娘エリサベットと結婚し外務大臣を二度経験した。

この自伝大変面白いが、伊藤博文との確執を露わにする部分や、自己弁護も多々見られるとある。歴史の舞台において青木周蔵はトップリーダーというよりはサブリーダーであるとされている。だがこういう視点からの歴史記述はやはり面白い。