東洋文庫 東学史 (1940)

著者の呉知泳についてはほとんど知られていないが教団内部の人のようである。本文より一部を紹介する。

《道 ーーー そのはじまり

今を去ること百年前、甲申の年〔1824年〕10月28日、朝鮮慶州の地に、宇宙を開闢させるという一大人物が誕生した。その人こそ今も世に名高い水雲先生である。(略)》

これが初代教祖崔済愚(1824〜1864)である。

《布教と受難

水雲先生は辛酉の年〔1861年〕から葵亥の年〔1863年〕までの三年間、道をひろめ人を教え導いたが、そのとき慶尚・全羅・忠清の三道で先生にしたがうものは無慮数万人にたっし、その評判は朝野を震動させ大いに注目をひいた。政府は宣伝官の鄭亀竜を慶州に派遣し、王の御命として先生を逮捕させ、大邱監営に移送・留置した。ときあたかも、李朝政府が西学の信者を捕らえて殺していたときであった。ときの慶尚道監司徐憲淳の審問は、厳しいものであった。(略)

これを聞いた監司は、「東学だろうと西学だろうと、儒道の系統以外はすべて異端であり刑杖をふりおろさせた。このときたちまち、晴天の霹靂のような物音が、宣化堂を震動させた。監司は驚いて、「何の音だ?」と聞いた。羅卒たちは、「罪人の脚が砕けて響く音です」と答えた。監司は顔をしかめて「それではその罪人を打つのをやめ、再び獄に下してとじこめておけ」と命じた。》

記述がわかりにくかったが、このあと奇跡が起こるでもなく水雲先生は処刑されたようである。

《道の継承

水雲先生が世を去ってのち、海月先生が道についての諸般のしごとを引きついだ。》

海月先生、本名崔時亨(1827〜1898)は二代教祖として転々と逮捕を逃れながら、その実務組織力によって農民の間にしだいに全国的な非合法の教団組織を作り上げていったという。1898年海月先生は朝鮮政府に処刑された。

三代目教祖孫秉煕(1861〜1920)が選ばれたエピソードがある。

《このころ海月先生は、亀庵・義庵・松庵の三人を呼んで話した。「今後、東学の道についての諸般の問題は、君たち三人に任せるから、十分勉め励むように。三人が心を合わせれば、天地が揺らぐような危機に直面しても、何でもやりぬくことができるだろう」と。そしてなお、三人のうちで主たるものがいないではうまくいかないだろうからと、義庵孫秉煕を主長とすることにし、北接大道主に任命した。》

天道教創設のエピソードがある。

《これに先立ち、義庵先生は、日本にあって一進会の評判がだんだん悪くなっていくことを知り、これをいかに処置すべきかを研究し、また滅亡に瀕した東学を将来いかなる方法で再生すべきかを熟慮して結論を下していた。そして乙巳の年〔1905年〕11月ごろ、「天道教」の三字を新聞紙上に公布した。天道教という名称は『東経大全』にある「道は則ち天道」という語句から意味をとり、「教」の一字を義庵先生の創意によってつけ加えたものである。》

天道教は現在まで生き延びて北朝鮮における最大の宗教となっている。