東洋文庫 大津事件日誌 (1931)

本書は、大津事件の中心人物である 当時の大審院長児島惟謙が自らまとめた手記を覆刻したものである。解説文は家永三郎氏による。

児島大審院長の考えを示すこのような記述がある。

《上下一般が、かくして津田三蔵の白刃に其神経系を刺激せらるるや、其狂症は益々前後の思慮分別をも惑乱し来れり。津田三蔵は斬るべし、津田三蔵の一生命は国家億万の生命に換うべからず。彼の生命を奪いて露の上下に他意なきを示し、以って三千年の帝国をして一時の安を得せむべしと。内閣はしかりとなしぬ。元老は至当の措置なりとなしぬ。内閣と元老は相携えて司法の当局に法律の曲解を迫りぬ。暗裏の大波瀾は、遂に滔天の勢いを以て奔騰し来れり。 然れども、憲法は明治廿二年を以って発布せらりしにあらずや。当時の元老と閣員の或者は此光栄ある憲法発布の詔勅に副署せしにあらずや。 而して此憲法は、上 天皇陛下より下人民に至るまで、列祖に誓うて格守する義務を負い、以て国家の生命とする所にあらずや。(略)》

総理大臣との接触の記述がある。

《18日午前、松方総理大臣は、予に至急内閣に出頭すべき旨を申越し来れり。予は直ちに応じて、内閣に至れり。総理は、予を別室に招いて曰く、 大津事件に関する法律の解釈論に於いて、足下は猶お前論を主張せらるると聞く。右は判事全体に於いても然るか。

と。予は直ちに答えて

右は判事全体の意見を採りしにあらず。随て、小官は判事全体の意見を代表する能わず。単に大審院長の見解と思惟せられよ。

此に於いて松方総理は次の如く語り出せり。

(略) 曩に露国皇太子の我国に漫遊の通知あるや、本邦駐劄の露国公使は、我外務大臣に要求してして曰く、 我国皇太子漫遊の際、若し貴国人民にして不敬の行為ありたる時は、貴国の刑法中之を所罰するの正条なし。依ては、勅令を以て該法律を設定せられたし。 と。茲に於て閣議の上、青木外務大臣より答えて、 特に勅令を以て新法を設定するの必要なし。万一斯の如き事態を生ぜば、我皇室に対する法律によりて処断すべし。 と決答せり。(略)

依て、已むを得ざれば、臨機の処置、即ち戒厳令を発して兇漢を死刑に処するの外なかるべし。(略)

されば、予は暫く躊躇して、漸くに答えたり。

閣下の御焦心、実に察するに堪えたり。小官の一身を犠牲として左右し得らるるものとせば、幸に閣下等の満足を表せしむるを得れども、裁判官の職務は、独立にして不覇なり。大審院長と雖も、其員に加わらざれば其事件に対して意見を述ぶるの権限なし。殊に二月に於いて其裁判官を組織しあり。該七名の裁判官に於いて、如何なる解釈をなして判決となすも、他より容嘴するを得ざるなり。故に、今茲に小官が閣下の請求に応ずるも寸効なし。(略)」》

外堀が埋められたような随分深刻な状況である。結局内閣が干渉して当事件は七名の判事による大審院による裁判に委ねられることになった。

いよいよ東京から七名の判事がやってくる。大阪到着の前に判事たちは京都御所天皇からお言葉を賜る。

《今般露国皇太子に関する事件は、国家の大事なり。注意して速やかに処分すべし。》

この後大阪において大審院長は山田法相、西郷内相の面会要請を拒絶するなど判事を守る役割を果たした。裁判の様子が述べられ、判決文が読み上げられた。刑法第弐百九十条、第百十弐条、百十三条第一項に依り、被告三蔵は無期徒刑に処せられた。

外相、総理大臣、法相、内相がかかってしても司法の独立が崩せなかったという歴史的な事件である。これには一般民衆も驚いたようである。