岩波文庫 ユグルタ戦争 カティリーナの陰謀 (紀元前2〜1世紀)

日本に生まれれば岩波文庫は小学生の頃から目にするだろうが、長いし読んでもわからないような本である。高校生くらいには読めるようになるだろうが、その頃はもう時間が割けなくなる。大学生の頃読めばよかったとは思うが、もっと読みやすい本多勝一西村寿行などを多読していたように思う。それより何より若い頃は何か読んで生計に役立てようと思うものである。若い頃からギリシャ・ローマの文献一筋だと多分食うのに困る。塩野七生女史のような例外もあることはあるが。

まあそういう事で今は長生きすればするほど岩波文庫を読む時間があるし、充分働いたので生計のことも考えなくて良い状況である。ローマの文献が目の前にある。

映画 祭りの準備 (1975)

ATG映画の中では一般にも好評だった作品である。高知県の小さな町で幼少時から育ち青年になった楯男は信用金庫に勤めながらシナリオライターを目指していた。母親と祖父との三人暮らしである。映像にはお遍路さん、肉体労働をする大勢の主婦、うたごえ運動、売春防止法直後の風俗が描かれており、庶民の生活は性的にあけすけであり、楯男には刺激が強すぎるという側面もあった。

ヒロインの涼子は儚くも美しい憧れの少女だが、東京から来た左翼のインテリに体を許してしまうのだった。一方楯男の方はヒロポン中毒のせいで狂人となって帰ってきたタマミと一回だけ関係を持つが、タマミは祖父の子供を身ごもり、無事出産し正気に戻ったのである。タマミはこの子が楯男の子だとうすうす感づいている。

信用金庫で不祥事を起こした楯男は、これを機会にいつも干渉してくる母親を置いて東京に旅立つのだった。監督が素晴らしいのかこの映画はどうみても傑作である。シチリアシチリアを先取りしたような作品になっている。なお実話では楯男はこの後有名な大シナリオ作家になるのである。作家の名前は中島丈博である。

岩波文庫 存在と時間 (5)

正直に冒頭に書いてしまったので、この後は手を替え品を替え同じような事を論述しているに過ぎない。比喩を用いたり、逆説風に論じたり、言葉を変えたり、時にはプラトンデカルトを引用し、ある部分ではソフィストの言辞を批判しているように見えるのだが、ハイデガーの本質はソフィストそのものである。これだけの言辞を費やして一歩も進まなかったのだから。

P89 《仕上げられるべき問いにおいて、問われているものは存在である。つまり、存在者を存在者として規定し、存在がどのように究明されるにせよ、存在者をがそれにもとづいて、そのつどすでに理解されているものである。存在者の存在は、それじしん一箇の存在者で「ある」のではない。存在問題を了解するさいの哲学的な第一歩は「いかなる物語も語らない」ことにある。すなわち、存在者を存在者として規定するのに、その存在者の由来をたどって他の存在者に連れもどすことはしない、ということだ。それではまるで、存在がなんらか可能な存在者という性格を有することになってしまう。問われているものとしての存在は、かくて、ある固有な提示のしかたを要求する。それは、存在者を発見するしかたとは本質的からしてことなっている。したがって、問いもとめられているもの、つまり存在の意味も、固有の概念的構成を要求することになるだろう。それもまた、存在者がその意義にそくして規定されたありかたへともたらされる概念に対して、その本質からしてきわだって区別されることになる。》

ソフィストの書いた文章を追いかけるよりは、自分が本物の哲学者になって存在の意味を極めることの方が有益である。手近な問題としては、『閉店中の蕎麦屋蕎麦屋なのか』、『空蝉は存在しているのか』、『穴とは何か』、『鳥は何故美しいのか』、『哲学によって存在を担保しなければ全ての学問がひっくり返るというのは本当なのか』くらいが挙げられる。

岩波文庫 存在と時間 (4)

改めて冒頭の部分を読んでみる。(P67)

《「というのも、『存在する』という表現をつかう場合、じぶんたちがそもそもなにを意味しているのか、きみたちのほうがやはり、ずっとまえからよく知っているのはあきらかだからだ。私たちの側はどうかといえば、以前にはそれでも理解していると信じていたにもかかわらず、いまでは困惑してしまっている」

『存在する』という語で、私たちはそもそもなにを意味しているのか。この問いに対して、こんにちも私たちはなんらかの答えをもっているだろうか。まったくもっていない。だからこそ、存在の意味への問いをあらためて設定することが必要なのである。(略)『存在』の意味への問いを具体的に仕上げることが、以下の論考の意図するところである。いっさいの存在了解一般を可能にする地平として時間を解釈することが、その当座の目標となるのである。》

引用文はプラトンだが、やっぱりソクラテスの『メノン』に戻っているようだ。しかも『問い』を設定するだけで、『答え』は用意されているわけでも無い。『時間』を交えて論ずれば、あわよくばという感じである。もうこの段階で行く末が想像できる。

岩波文庫 存在と時間 (3)

方法論としての現象学を調べて行くとフッサールの主張は対象への接近度と観察者の直観を重視しているように見受けられる。データを取る対象を近代的視点から記述して行くと確かに失われれてしまうものが多くなる。人類学研究の理想は部族の一員になりきって、近代的思考を排し、自らの原始の直観を呼び覚ます事で十全な結果を得ることができる。梅棹忠夫は経験上この事を体得していると言えるだろう。

哲学の存在論においてこの事を実行すると、観察者である自分が対象であるコップに接近してゆき、コップ自体になりきり、直観を用いてコップの思考をしようということになる。投げられたら言語道断という気持ちになるだろう。

すると自分はどうなるのか。この一派は超越的存在と呼んで言葉を濁しているが、本来は他者によって調査分析される以外に自分のことは自分ではわからないのである。

岩波文庫 存在と時間 (2)

P213 《哲学の根本問題である存在は、存在者がぞくするいかなる類でもないが、存在はそれでもなおそれぞれの存在者にかかわってっている。(略)存在とは端的に超越概念なのである。》

何か核心に触れた感じがする文章だが、言い切っているわりには言葉が足りない。僭越ながら大意を補ってみる。

コップの存在とコップを認識した存在者があるとすると、そのコップでコーヒーを飲んだ時コップが存在し、コップを投げた時はそれはコップでは無いという文脈において、何か議論がなされるとすれば、両者のカテゴリーが若干違っているというだけに過ぎない。存在者の行動如何によってコップが存在しなくなると言うのは詭弁である。

この辺は現象学における諸問題に関連しているのでもう少し現象学について調べる必要がある。

岩波文庫 存在と時間 (1927)

この表題からは科学論文みたいに2ページくらいにならないのかという疑問が湧いてくる。哲学は自然科学ではないのだろうか。今の私には考える時間は青天井くらいに存在する。まだ読む前だが、ハイデガーの主張は結局ソクラテスのメノンに戻るだけだったらがっかりする。