東洋文庫 山川菊栄 おんな二代の記 (1956)

  幕末の水戸藩の恐怖時代をくぐり抜け千世が父の居る東京へと旅立ったのは明治5年6月7日の事だった。その後千世は築地の上田女学校、四谷の報国学舎、御茶ノ水女子師範学校へ進む。卒業後は就職することも無く水戸藩足軽の次男坊の森田竜之介と見合い結婚する。竜之介は横浜外語学校でフランス語を学び食肉製品の技術者になり活躍する。二人の間に生まれたのが山川菊栄である。

   千世の見た当時の東京の世相が鋭く核心をついていて感心させられる。裏話のようなエピソードも豊富で純度99%の朝ドラを見るような心持ちで面白く読めた。ごく一部を引用し供覧する。

    荒れ野原の東京

  三百諸侯と旗本八万騎という寄生階級を中心に栄えていた消費都市江戸は、武家制度が亡びると同時に荒れはて、多くの屋敷は解きほぐしてよそへ運ばれ、空地にしげった立木、庭石や泉水ばかり残されていたり、彼らが何代もすみふるしてすてていったボロ長屋に明治政府の役人となった田舎ざむらいが巣をくって、とことどころにわずかに灯影のほのめく荒れ野原が、そのころの山の手の姿でした。

   西南戦争のころ

  西南戦争は八ヶ月で片づきましたが、あれしきの暴動を、比較にならないほど十分な装備をもつ近代的軍隊の官軍が鎮圧するのにあんなに長くかかるはずがなく、まったく三菱が私腹をこやすため、軍隊や軍需品の輸送に必要以上に時間をかけ、戦争を長びかせたものだと世上でとりざたされ、実際このときはじめて強大な三菱王国の基礎がしっかりとつくりあげられたことは否めません。西郷は三菱の福の神だ、西郷が命をすてて三菱をふとらせたといわれました。