鈴木傾城 タイでは郷愁が壁を這う (2017)

   鈴木傾城氏の自伝的エッセイである。 若い頃の氏はぼんやりと進む道も考えてはいたし周囲から期待もされていたという。初めての海外旅行はタイでカオサン、ヤワラー(チャイナタウン)、クロントイと長期滞在した後日本に帰って来た。すると1年もしないうちに熱帯のギラギラした太陽と甘酸っぱい匂いが忘れられず氏はバンコクに戻って行く。この時の開放感からマリファナとシンナーが蔓延する売春地帯のバッポンに本格的にハマった。この時氏の人生は決定したようである。一度は日本に帰りタイの記憶は封印し生きて行こうとするのだがタイの重くけだるい空気とやさしい女達のことが忘れられず、とうとう売春地帯の一匹狼として生きて行く事を選んだのだと言う。

  だがタクシンの登場により経済が発展し歓楽街に規制がかけられる様になるとカオサンもバッポンもかつての開放的で無法地帯的な部分は影を潜めどんどん様変わりして行った。どこもかしこも観光客向けのビジネス化が進んで行く。あらためて訪れて見ると昔の様に惹かれる感情も薄らいでしまった。

  今こうして日本のコーヒーショップで目を閉じて音楽に聴き入っていると様々な思い出が脳裏に浮かんで来るが嘗ての安宿や運河やファランボーンの駅も今は見ることは出来ない。女たちも何処かへ消えてしまい今は記憶の中に残るのみである。写真に撮っておけばという後悔もある。タイで自分の人生が狂ったのはある意味幸せだったと思うこともあるが、一人の女を愛し子供も作りつましく生きて行けば良かったのではと思うこともある。今振り返ればタイでは必ず見かける壁にへばりついたヤモリと女たちのべピーパウダーの匂いに郷愁を感じる自分がいるのである。