1992年の配給収入第二位で18億円である。
天明二年(1782年)12月13日、米一千石を積んだ大黒屋光太夫の船が伊勢を出航、江戸に向かうがその夜暴風雨に襲われ漂流する。お告げで航路を決定するが上手く行かない。漂流103日目乗組員の幾八が死亡。 220日目さらに4名が死亡していた。ある日とうとう陸地が見えた。アリューシャン列島のアムチトカ島である。漂流248日目のことだった。結局6名が死亡し11名が生き延びた。上陸すると原住民が現れる。程なくロシアの兵隊が現れる。
ここがどこなのか相手が何なのかわからない状況の中エトチュア(これは何?)という言葉を用いて乗組員らは物の名を覚えていった。魚と鳥を獲り冬に備える。しかし食料が尽き仕方なく肉を食うことになる。春が来ると鮭が獲り放題なくらいに獲れる。迎えの船でオホーツクまで乗せてもらう約束をロシア人とするがその船は難破してしまう。光太夫は一念発起して二年かけて船を建造、それでオホーツクまでたどり着いた。だがオホーツクの長官はここは管轄外で陸路イルクーツクへ行けという。
イルクーツクへ行くかどうか光太夫は船長として判断に迷ったが遂に行くことになる。トナカイとソリを使い厳冬の中旅を続ける。脱落すれば死である。5ヶ月の苦闘の末イルクーツクに着く。人口1万の都市である。シベリア総督府に行く。あいにく総督は長期不在の状況だったがお金が支給された。日本人の子孫が現れる。イルクーツクには外科医もいて凍傷の足も手術してくれた。光太夫らは漂流民として町で有名になる。
帰国嘆願書は却下されるがその代わり日本語を教える役人になれば給金をくれるという。皆落胆したが若い新蔵はニーナと暮らすことにした。どうやら嘆願書は握りつぶされたらしい。博物学者ラクスマンの発案で女帝エカテリーナに直訴する計画を立てる。春になって出発する。庄蔵はキリシタンになる。ここに骨を埋める覚悟らしい。馬車だと結構速く4月にペテルブルクに到着する。女王陛下の側近にまず面会する。却下されたが今度は科学アカデミー総裁に頼もうという。今度は上手くいって夏の離宮で女王陛下に謁見できた。光太夫はロシア語で上手く受け答えしたが求めに応じて浄瑠璃の一節を熱演したところ女王陛下は機嫌を損ねた様だった。だが光太夫が食い下がり帰国の許可を得た。
蝦夷に船が着いた時は帰れたのは二人になっていた。幕府との交渉の末ロシア船は長崎に入れることになり二人も死罪になるところを赦されて江戸で残りの人生を全うする。
原作は井上靖の同名の小説(1968)である。道理でお涙頂戴的な場面が多かった。東洋文庫には蕃談(1849)という長者丸の漂流譚がある。