東洋文庫 東韃地方紀行 (1811)

本書は1808〜1809年に間宮林蔵が現地人とともに樺太黒龍江流域を調査・探検した時の口述記録である。

冒頭の部分と途中を抜粋して紹介する。

文化五辰年の秋、再び間宮林蔵一人をして、北蝦夷の奥地に至る事を命ぜられければ、其の年の七月十三日、本蝦夷地ソウヤを出帆して、其日シラヌシに至る。此処土着の住夷多からざれば、従行の夷をやとう事あたわず。夷船の奥地に趣く者あるを待ち、とかくして日数三日逗留し、同十七日、夷船にのりくみ此処を発し、日数五日を経て、同廿三日、トンナイに至る。

(略)

夫より此処の番屋に寓居して其年を越へ、巳年正月廿八日までに滞留し、食料の貯など調へ、廿九日、此処を出、又奥地に向ひしに、二月二日、ウショロに至る。是より奥地は悉く満洲附属の夷域なれば、初島の夷恐怖する心あるに、地夷の流言する処、初島の夷奥地に入る時は、往時より交易の諸品を貸置し贖の為に質となして、奥地の夷是を捕んと云ひしなど聞及び、且は去年、山旦夷の狼藉など思ひ出し、従夷悉く恐怖し、更に従ひ行べしと云者なし。故に六夷の内悍勇なる者一人を残し、余は悉く帰り去しめ、よふやくにして地夷五人を傭ひ、船を出して四月九日ノテトの崎に至りしに、海上猶凍合して舟をやることあたわず。

(略)

やふやく七月二日に至て風波穏なる事を得、船を出すといへども、烟霧は猶濠々として東西を弁ぜず、洋中を行事凡三里半許にして、初めて東韃の地方モトマルと名づけたる崎を見かけ、夫より地方に添ふて南流し、カムガタと称せる崎に至りけるに、此処潮瀬ありて怒濤の激沸する事、実に急河のごとくなれば、夷船既に堪えざらんとする事数度なりしをよふやく凌ぎ行きて、路の程凡十丁許南の方ロロカマチーと称する処に至り、入湾の内に船をつなぎて和潮を待の間、夷等鱒魚を得て水煮し、是を喰せしむ。夫より其日も西に傾きぬる頃、ようやく減潮の侯に及び、波濤も少し静なれば、其処を出て一里半許を行き、其夜はアルコエと称する処に泊しぬ。