東洋文庫 新猿楽記 藤原明衡(1052)

平安時代の文化が爛熟して崩壊する前夜の庶民の活動の有り様を衛門尉が書き記したという形式で綴られる読み物である。著者は藤原明衡とされている。冒頭の部分の現代語訳を示す。

わたくしは、この二十何年以来、東の京、西の京にわたってずっと見てきているが、今夜の見物ほどすばらしい猿楽の演戯というものは、古今を通じて空前の物であった。中でも咒師猿楽や侏儒の舞い、ささらや鼓笛ではやしたてる田楽の狂騒、傀儡の輩の木偶操り、大陸伝来の奇術・幻術、品玉・八玉の弄玉の類、鼓を糸上に輪転する輪鼓の類、それから田の神相手の独り相撲・独り双六、ぐにゃぐにゃの骨無し芸。ごつごつの骨有り芸。それから、ふにゃふにゃ郡長のへなへな腰、えび漉き舎人の達者な足つき。氷上なにがしが工合がわるくなって逃げ出すときの袴のももだち、山城あねごの大年増ががらにもなく恥ずかしがってさすさし扇。琵琶法師が琵琶を伴奏にして語る物語、千秋万歳の門づけがうたうほがいうた。満腹で腹鼓をうつが胸は鳩胸のあばら骨、かまきり舞でふりたてもげる鎌首のなり。これはしたり、檀家に袈裟の寄進をねだる福徳大尽の上人さま、嬰児のおむつをさがし廻る妙高無類の尼さま。素顔をさしだす刑勾当の内侍さま、笛をわすれて口笛で調子をとるあわて蔵人。神楽猿楽の老楽師のおどけた舞いすがた、男待ち顔に遊女巫女がこってり念入りにお化粧をこらしたご面相。下手なわるじゃれをとばしてたむろするやくざじみたいなせの京童の群、東国のいなかからのお上りさんの赤毛布ぶり。ましてや拍子をとる猿楽の囃子方の男どもの熱狂した様子、その一座を宰領する猿楽法師の手馴れたしぐさ有様、すべて猿楽とよばれる雑伎の芸態、そのばかばかしい言葉のやりとり、全く滑稽の限り、腸もちぎれ、おとがいの骨もはずれんとばかりに笑いこけさせないものはない。

この現代語訳も素晴らしいが当時の光景が眼に浮かぶような描写力は只者ではない。以上は序の一部であるが本文の第一の本の妻 老女 の凄まじいリアリズムの文章は教科書に載せて欲しい気がする。長いのでここでは紹介は出来ないのが残念である。