東洋文庫 幕末政治家 (1898)

著者の福地源一郎は長崎出身の旗本で維新後は新聞の創刊、翻訳、戯作、小説執筆と多彩に活動し政治家としても活躍した。本書は著作の中の一つで歴史を扱ったものである。老中阿部伊勢守、水戸老公、島津斉彬卿、堀田備中守、井伊直弼、水戸斉昭、安藤対馬守、水野和泉守、松平大蔵大輔、岩瀬肥後守、水野筑後守、小栗上野介について論じられている。〈堀田備中守と外国条約〉の段から紹介する。

蓋し阿部伊勢守は、深く国内の折合を慮りたるを以て、何にしてもハルリスを江戸へ出府せしめず、将軍へ謁見せしめず、閣老も面談せずして、外交を取り扱はんと欲したるが故に、ハルリスの請求に対して快答を依違すること幾ど一年に及びたりけるが、伊勢守卒去の後は、ハルリスはもはや快答の遷延を肯ぜず、「許否の如何に由りては国旗を捲きて帰国すべし、余が帰国は日本に於て米国に恥を与へたる実証なれは、米国は之に尋ぐに兵力を以てして、日本の罪を問ふべし」と迄に脅迫したり。(略)

されば備中守が当時水戸老公を始として諸大名旗本に異論の多かりしを顧みず、断然安政四年八月廿八日の布告を以て、米国官吏の国書持参、江戸参上、登城拝礼を許したるは、備中守の英断にして岩瀬を首として川路井上の諸人が是を勧めたるに由れり。

次に岩瀬肥後守の段の一部を紹介する。

水野筑後守は元来条約勅許論者の一人にてありければ、此議論の際に、岩瀬に面会して曰く「幕府已に条約調印に関して京都に請へる以上は、米国全権に対しては如何やうにも言延し、以って其勅許を俟つの外方策あるべからず。然るを目下幕府の独断にて調印せば、他日不測の大患あらんこと必定なり。是れ足下の独断説は大に余が反対せる所なり。」岩瀬冷笑して曰く、「京都公卿等には 宇内の大勢を弁別して国家の利害を悟り、条約勅許に同意を表するもの一人も無し。是を知りながら、徒らに勅許々々と勅許を恃み、其為に時期を失ひ、英仏全権等が新捷の余威に乗じて我国に来るを待たんは、実に無智の至なり。斯る蟠根錯節の場合に遭際しては、快刀直載の外は有る可からず。国内不測の大患は、我素より覚悟する所なり。我は唯々国外より不測の大患を被らん事を恐るるなり」と云々(是は水野筑州の直話)。(略)

米国の申し出を拒絶してハルリスを暗殺でもしようものならアロー戦争後の清国の様になることは大体の幕僚は分かっていたと思われる。京都公卿、水戸藩も死に物狂いに抵抗したが幕府側の勇断が優った形になる。