東洋文庫 真臘風土記 アンコール期のカンボジア (1300年頃)

著者の周達観は元の使者として1296年に真臘(カンボジア)を訪れ翌年帰国している。これはその時の記録である。真臘と占城は1285年から元 に入貢している。

本文では先ず真臘の場所について船で行く行程が記され、聖天子(成宗)の命により今回の業務が行われた経緯が述べられている。次に王都の詳しい造りが記され、人々の服装、装飾品、役人、宗教、住民、出産、奴婢、言語、野人、文字、暦、季節、訴訟、病気、耕作、地勢、産物、貿易、草木、鳥獣、蔬菜、魚、醸造、養蚕、道具、車、舟の事が簡潔に記されている。この他にも奇怪な出来事などが記されている。一部を紹介する。

7 人物

人はただ野蛮な習俗を知るだけである。みめかたちはみにくくて甚だ黒い。殊に、海中の島や辺鄙な村に居る者のことは知らないが、通常の村里の間に居る者についていえばまことにそのとおりである。宮人および南棚の婦女のごときに至っては、その白いこと宝玉のようである者が多い。思うに太陽の光を見ない故であろう。大抵、一布を腰にまとうほかには、男女なく、みな乳房を露出し、椎髻で跣足である。国王の妻であっても、またこのようである。(略)

16 病癩

この国の人は通常、病があると、多くはそこで水に入ってひたり浴し、ならびに頻頻に頭を洗う。すぐに自然と病がなおる。しかし癩を病む者が多く、比比として多数の病人が道路の間に居る。土地の人はこれとともに臥しともに食べても、また感染しない。ある人は、彼の中では風土でこの疾があるのだという。又、以前に国主でこの疾をわずらったものがあり、その故に人はこれを嫌わないのだという。(略)

19 山川

真蒲から入ってより以来、おおむね多くは平地林の生いしげる木で、長い川と巨港が長々と続きわたること数百里である。古樹が曲りくねり、森の北面におおいかぶさり、禽獣の声がその間に入りまじる。

半港に至って、始めて広々とした田があるのを見る。全く低い木もなく、広く見渡せば、芃芃(ほうほう)として禾黍のみである。野牛が千頭も百頭も群れをなして、この地に聚まる。

又、竹の茂る堤があり、これもまた長く続くこと数百里である。その竹は節の間にとげをはやし、筍の味は至ってにがい。四方の境界にはみな高い山がある。