映画 全身小説家 (1994)

1989年12月16日井上光晴西武秩父駅に降り立ち、ある会合に向かう。自らの小説論をかまし、夜の席では女装してストリップを演じている。辺境一座の公演と題されている。1990年正月には埴谷雄高氏の自宅で乾杯する。大勢の関係者の中で気炎を上げ劇団を立ち上げるという。埴谷雄高氏は始終穏やかだが井上光晴は時に激昂する。宴会は夜まで続く。調布東山病院のベッドで寝ている光晴。実は1989年8月に大腸ガンの手術を受けている。主治医とガンの転移のことについて話している。

自分の生い立ちについて語る光晴。両親に捨てられた光晴は祖母と佐世保に住み炭鉱で働いていたという。筑豊伝習所の会合では炭鉱の話、霊媒をやっていた話からリアリズム文学論へと発展してゆく。デイサービスセンターいきいきハウス落成式で来賓として招かれ祝辞を述べる。関係者は語る。光晴は女性と見ると口説き3割成功したという。口説かれた女性は満更でもなさそうで光晴の声がセクシーだという。野間宏とともに文学賞の選考をする。井上光晴は文学界の重鎮である。

病院でガンの肝転移について主治医より説明を受ける光晴。紹介された病院で手術を受けることになる。覚悟したのかその夜は高級酒とどぶろくを飲んでいる。手術前、瀬戸内寂聴が写経と京都のお菓子を持って見舞に訪れる。1990年7月23日手術の当日である。手術の模様が映し出され摘出された肝臓も映し出された。術後埴谷雄高が見舞に来る。元愛人にインタビューする。巧妙に口説かれ遊ばれたという。退院後光晴は自宅でビールと釜揚げうどんを味わう。夫人はタバコをふかしている。

敦賀で講演会が開かれる。能弁だが白髪が増え少し痩せている。運命とかガンについての話の様だ。どこかの旅館で新作「大胆な生活」のゲラ刷りを校正する光晴。出版記念講演が農協会館で行われた。聴衆は女性が圧倒的に多い。やりたい事を全部やりなさいという趣旨だった。夜の会合で熱唱する光晴。

1991年正月、新年会が開かれる。自宅の居間の様なところである。発言は辛口になっている。酒はオールドパーを飲んでいる。関戸図書館で多摩文学伝習所の会合が開かれる。弟子たちの中から文学者が一人、二人出ればいいと埴谷雄高が言う。湾岸戦争に反対し瀬戸内寂聴ハンガーストライキに突入した。現場を訪れる光晴。寂聴は光晴のトランプ占いについて語る。トランプ占いは光晴が女性を口説く為の小道具であるという。温泉旅館で会合が開かれる。弟子たちの作品について批評する。夜は宴会である。またまた口説かれた女性をインタビューする。女性は大人の関係を赤裸々に語る。

光晴は島の炭鉱の地図を描きここに二階建ての遊郭があったという。写真の遊女たちはチョゴリを着ている。現地を歩きここに線路が通っていたという。当時のフィルムが残っている。人が多い。崔鶴代という初恋の少女の写真がある。彼女は名古屋に行ったという。名古屋の清津亭という女郎屋の妓生が鉦太鼓を打ち鳴らし行進する。少年の光晴がそれを見ている。行列の最後にはその少女がいた。その後の話は少々悲惨なものだった。本当か嘘か。今度はテレビに出演し父について語る。同級生、妹が当時のことを語る。16歳で専検に合格したという官報がある。これは本当だろう。女郎屋の話は嘘だろうと関係者はいう。

また転移が見つかり手術、化学療法という方針が決定する。癌研の先生の意見を聞きにゆく。手術をしても延命できるかどうかということだった。結局化学療法を選択する。自分には朝鮮の血が4分の1入っていると光晴は言う。裏が取れるかどうか聞き込み調査が開始される。祖母の墓までたどり着く。祖母は高島サカという。役場に足を運ぶ。ここで意外な事実が判明する。父雪雄と祖母サカが兄弟になっている。どういう事なのかよくわからない。

共産党時代の話をする。幹部だったようなことを言うが、同志だった女性によると光晴は事務所の雑役夫に過ぎなかったという。早い時期に光晴は除名されている。

CTで化学療法の効果を確認する。徐々に悪化しているようだ。851という中国のサプリを飲むシーンがある。今度は舞台の挨拶に登場する。取材班は母の実家を訪問する。光晴が旅順で生まれたというのは虚構であるらしい。父が描いた母の掛け軸がある。寂聴が娘に会った時のことを語る。捨てたなら最後まで捨てろよと娘に言われたとう。光晴の母が75で死んだ時の話がでる。そばに光晴の本が置いてあったという。

自宅でガウンに着替える光晴。ちょっと変わった医師が往診に訪れる。診察した後プロポリスの瓶を置いて行った。藁にもすがる思いの光晴だが今の医者は説得力にかけると言う。癌研の医者が説明する。肺の転移巣が将来心臓に影響を及ぼして来るという。光晴はコーヒーを飲みながら最後の作品について語る。女性軍団が見舞に訪れる。夫人がIVHから抗ガン剤を注入する。1992年正月になった。新年会のようになっている。元気そうな姿を見せる光晴。午後四時にはお開きになり疲れたのか光晴はすぐ床に就いた。

1992年5月30日未明井上光晴逝去。弔辞を読んだのは寂聴だった。最後に調布の自宅の書斎が映し出され机に向かって物を書く光晴の姿があった。