東洋文庫 維摩経 (406)鳩摩羅什訳 石田瑞麿重訳

伝聞に基づく説話風に語られる。ある時ヴァイシャーリー市に維摩という資産家がいた。よく修行し悟りを得て神通力も持っている。その力は菩薩とほぼ互角であり帝釈天梵天、四天王に敬われている。

だがある時維摩は病気を装い、見舞いに訪れた人たちに身体について説く。

曰く「身体は不浄で老い易く病気により損なわれるもので頼りにしてはいけない。だが修行を積んで真の悟りを得れば、仏の身体を得ることも不可能ではない。それにはまず最高至上の悟りを求める心を起こすことだ。」と言って人々にその心を起こさせた。

世尊(仏)は見舞いに来て欲しいという維摩の心を読みとり、舎利弗に行って来いという。ところが舎利弗、以前自分が坐禅をしていた時維摩が話しかけて来て、その弁舌にしてやられたことがあり御免被ると言う。次に目連に行けと言うと、これもしてやられた経験があり辞退する。次に迦葉に言うとまたまた辞退し、須菩提も辞退する。富楼那も説法中にケチをつけられたことから辞退する。こうして迦旃延阿那律、優波離、羅睺羅、阿難と全部の弟子が辞退したのである。

次に世尊は弥勒菩薩光厳菩薩、持世菩薩にも行くように命じたが恐怖のあまり辞退している。次に資産家の息子の善徳に行くように言った。これも辞退し誰も行くものがいない。

ところが文殊が行くと言うので文殊維摩の討論を聞くために弟子たちや菩薩たちが後ろからついて行った。維摩はベッドに一人で寝ていたが文殊たちと真理についての遠大な討論を繰り広げる。一部だけ紹介する。

維摩「(略)舎利弗さん。真理のことを寂滅とも呼びますが、もし生滅を繰り返すなら、これは生滅することを求めているので、真理を求めているのではありません。真理のことを無染とも呼びますが、もし真理や、ないしはさとりに執われるなら、それは汚れに染まった執着であって、真理を求めているのではありません。真理は対象の世界にはありませんが、もし真理を対象として扱うなら、それはすでに対象を求めたのであって、真理を求めたのではありません。真理は取ったり捨てたりするものではありませんが、もし真理を取ったり捨てたりすれば、それは取ったり捨てたりすることを求めているので、真理を求めているのではありません。真理には場所はありません。もし場所に固執するなら、それは場所に固執したので、真理を求めているのではありません。真理を形や姿のないものと呼びますが、もし形や姿によってこれを識別しようとするなら、それは形や姿を求めているので、真理を求めているのではありません。(略)」

仏典はヴェーダの系譜を受け継いでいるのでこのように難解な話が多い。