東洋文庫 大日本産業事跡 1 (1891)

解説によると著者の大林雄也は1887年に東京農林学校を卒業したとある。これは新進気鋭の農学士による著書である。

第一章勧農殖産では「農政本論」の著者佐藤信淵の事績や米沢藩の漆栽培の事績等が書かれていて凄い人がいるものだとちょっと驚かされたが、あまり詳しくは書かれていない。第二章以降から少し紹介する。以下引用文。

第二 開拓疏水

二十四 相模箱根湖水開鑿の事績

箱根湖水開鑿の事は遠く二百余年前にありて、駿東二十八箇村に分水し、その益を村民に与うること鮮少ならずといえども、世人の今日に至るまでその由来を知る者まれなり。今これが来歴を記さんに、そもそも今(明治十二年)を距たる二百数十年前、駿河国駿東郡深良村に名主大庭源之丞なる者あり。同郡二十八箇村の用水常に乏しきを憂い、幸に箱根の湖水あるあり、これより分水せんとて大に苦慮し、遂にこれを江戸浅草住浅井次郎兵衛、同本船町尼崎嘉右衛門、同四谷友野与右衛門、同本船町長浜半兵衛の四名に謀り、山麓を穿開して水道を通すの議に決し、四名これが金主となり、連署にて時の老中に出願せり。これ実に寛文五年の事なり。同六年九月官許を受け、同八年八月二十五日穿開に着手せり。その法一方は湖水を距たる四十六間の処より掘り、一方は山後の下口より掘ることとし、下口を堀初めしは同八年十一月二十五日なり。而して同十一年四月二十五日に至て初めて水路を通じ、ここに竣功を告げたり。この総費用およそ八千両、人夫一人八十八文なり。この費は金主四名の出金にしてその他官民ともに毫もこれに関らず。奏功ののちこに費金を償わんがために潅水の田一段につき上石一斗五升ずつ7箇年間金主に納ることに定めり。而して七年を経て用水を管理せしむるために代官所より水配役二人を置き、安永年間この法を改め、二十九箇村を上郷十一箇村、中郷九箇村、下郷九箇村に分かち、毎郷に水配役二人を置くこととせり。明治維新後改革する所ありといえども、おおむね旧規に準拠せり。今なお連綿として水道を保存し、同郡の鴻益を残すと云う。

第十一 牧畜家禽

十五 千島色丹島綿羊飼育の起源

千島国色丹島は天然の牧草に富み牧畜適当の地なるを以て、明治十八年中、北海道七重に飼養の綿羊のうちサウスダウン種32頭、メリノ種23頭を該島に移し、旧土人をして始めて綿羊の飼畜を試業せしむ。これ該島畜羊の創始なり。

第十二 林業および林産物

七 上野大谷休泊樹林開発の事跡

大谷休泊は関東管領上杉憲政の臣にて、温厚篤実、よく干戈の中にありて勧農殖産の道に奔走し、すこぶる開拓の事業に尽力せしが、ついに天文の年中、憲政衰頽ののち、上毛邑楽郡成島村に住居し、地理を測量し荊棘を芟除し、樹木を栽培し、水路を鑿通して、五百余町の樹林、六十余町の田圃を開く。その地を大谷ヶ原と称し、水堀を休泊堀と云う。天正六年病のために歿す。数百年の星霜を経て、ついに明治十五年政府山林共進会開設の際、裔孫熊谷喜三郎を召し、その祖先の功労を追賞せられたり。