本書は三河出身の大旅行家、菅江真澄による旅日記である。版本は秋田藩明徳館所蔵の稿本を元に何度か出版されているが、この東洋文庫版は五冊からなり現代文とスケッチ及び詳しい研究解説から成っている。ジャンルとしては民俗学に非常に近いが、つげ義春の著書のような雰囲気もある。「伊那の中路」から一部を紹介する。
《こうして塩尻(塩尻市)について、昼食の中宿をとり、阿礼の社に参詣して、馬をいそがせ、たいそう広い野に出た。これが名高い桔梗ヶ原(塩尻市)である。その昔、善光寺に般若経を奉納なさった某の君の牛が、長い旅に疲れはてて、この野に倒れ伏した。そのころは原の名も来ル経と書いて、ききょう原と言ったのである。また、この野辺に桔梗も多く咲くので、原の名とし、牛伏という寺もあるなど、馬をひく男が話してくれた。》
知己が多いのか知人・友人を訪ねて歩いている。
《二十八日 医師可児永通の家を尋ねると、主人はさっそく、例の好きな道として
五月雨のふりくらしたるこの宿に
とひ来る月のかけもはつかし
と書いて、「老人のひがごとです、まあ見てください」とさしだしたので、返しに、
さみだれのふるきをしたふ宿なれは
さしてとひよるかげもはつかし》
この伊那の中路は著者30歳の時の作品である。賀茂真淵の流れをくむ学問と薬草学を修めていた著書は文学的な表現にも秀でている。
《二つの星に献上する文》
これには感銘を受けたが長いので省略する。もう少し紹介する。
《八日 夜半から例の音が響くので、起きだしてそのほうを眺めやると、昨日よりもまして重なる山々を越え、夏雲の空高くわきあがるように煙がのぼり、描こうとしても筆も及ぶまいと、みな賞でて眺めたが、その付近は小石や大岩を空のかなたまでふきとばし、風につれて四方にふりそそぐので、これに打たれた家は、うつばりまでもこわされたり、埋められたり、逃げだす途中、命を失った人はどれほどか、数も知れないほどだと、やって来る人ごとに話しあった。》