東洋文庫 魯庵随筆 読書放浪 (1933)

本書は内田魯庵(1868〜1929)の第二随筆集として昭和八年に出版されたものの東洋文庫版である。内田魯庵は小説家、評論家、翻訳家として活躍し、丸善の顧問として「学燈」の編集にも携わったという。内容、文体が分かるよう本文を一部紹介する。

西行芭蕉の行脚生活

私は曾て西行芭蕉の行脚生活を憧憬した事があった。今でも時折、出来るなら小さな書架と机と寝台を設備する自動車を移動書斎として、往く所へ往き駐まる所へ駐まる贅沢な鴨長明を空想する事がある。

が、私は握り飯を腰につけて草蛙で山河に行吟する脚力も体力ももたない。且安逸に馴れた都会人だから樹下石上は扨置いて、屋根の下でも蚤虱馬の尿する枕もとの宿りには一夜でも堪えられない。西行芭蕉の風雅な旅を興がるのは空想だけで、実行には躊躇する。矢張り畳の上で名所図会と首っ引きして室内行脚する方が草蛙の豆を作るよりは自分の性に合ってる。》

《 多忙なる読書と批評の困難

だが、恁う名著大著が続出しては読書家の生活は極めて忙しくなる。読書は閑人の業というが、名著大著が恁う矢継ぎ早に頻出しては読書家は頗る多忙の閑人と云わなければならない。私の許へ集まるのは知己の著者或は発行者から恵まれたものと、私の貧しい懐から支払ったものとホンの新刊の一部にしか過ぎないのだが、夫すらも全部を通読するのは容易でない。況してや此の以上に雑誌も拾い読みし、予約の叢書も購入し、折々は西書も漁り唐本も覗くとなれば毎日朝から晩まで机に向かって五行並び下るで一日二三百頁を欠かさず読んでも読み切れるものでは無い。勢い好書家は如何に速読家でもある程度に於てのツンドク先生たらざるを得ないだろう。だが、ツンドクの趣味を理解しないものは愛書家で無いのは勿論真の読書家でも亦無いのを信じて、私は常にツンドク先生に敬意を表しておる。》

著者は銀ブラが趣味であり、大正昭和の植草甚一のようでもある。