次の記述はこの小説の核心に触れている部分である。以下引用文。(吉川一義訳)
《記憶というものは、人生のさまざまなできごとの複製をつねに眼前に掲げてくれるわけではなく、むしろひとつの虚無と言うべきで、われわれは現在との類似のおかげで、死滅した思い出をときに記憶からよみがえらせて取り出しているのだ。ところがこの記憶の潜在能力のなかには収まらず、われわれが永遠に点検できない小さな事実がなおも無数に存在する。(略)嫉妬とは、つねに過去をふり返る点で歴史家に似ているが、ただしなんの史料もなく歴史を書かざるをえない歴史家のようなものである。》
嫉妬の精神破壊作用は凄まじく、一旦それが始まるとプルーストはありとあらゆる可能性を検討し、これから起こる不貞行為を阻止するための策略を考え出し、実行するのである。今回はフランソワーズに手紙を持たせて、観劇中のアルベルチーヌとアンドレの元へ行かせ、トロワ・カルチエで買い物するように頼んだのである。アルベルチーヌを女優のレアに会わせない為である。
この目論見がうまく行きそうと安堵したプルーストはピアノを弾き始め、ヴァントイユのソナタとトリスタンとの共通点に気付いて感嘆する。この後ワーグナーの音楽について自説を滔々と論じるのである。