我に返ったプルーストは再び音楽に集中し、その印象を言葉で綴り始める。以下引用文。(吉川一義訳)
《作曲家がそれぞれの響きの色合いを選んでほかの響きの色合いと調和させる。そのときの歓びが感じられたのである。というのもヴァントゥイユは、並外れて深い天賦の才に加えて音楽家はもとより画家でもめったに有していない才能、つまり、このうえなく安定し、かつきわめて個性的な色彩を用いる才能をも兼ね備えていたからで、その色彩の新鮮さは時が経過しても損なわれず、その色彩を発見した作曲家を真似る弟子たちも、その作曲家を凌駕する巨匠たちも、その色彩の独創性を薄めることはない。》
随分抽象的な論評だが、(ヴァントゥイユという作曲家はいないので)フォーレ或いはドビュッシーの作品に当てはまりそうな文章である。蓋し、楽曲の深淵を味わう事においては、家でいい音で何十回も繰り返して聴ける現代の方が幸せかと思う。
プルーストの論評のテンションがどんどん上がってゆくと、次のような表現も出てくる。こういうのが出てくれば、そろそろ終わりも近い。長いトンネルで、やっと光が見えてきたという感じである。
《とうとう歓びの動機が勝ち残って鬨の声をあげた。それはなにもない空の背後に投げかけられたいかにも不安げな呼びかけではもはやなく、天国からやって来たかと思われる言いあらわしようのない歓びであった。その歓びがソナタの歓びとは違ったものであったのは、深紅の衣を身にまとってブッキーナを吹き鳴らすマンティーニャの大天使が、テオルボをやさしく真面目に弾くベッリーニの天使とは違っていることにも通じる。》