失われた時を求めて (105)

センチメンタルな回想が続く。以下引用文。(吉川一義訳)

《天気の悪いある日曜日、それでもみなが出かけてしまって人けのない午後、風と雨の音に誘われて昔の私なら「屋根裏の哲学者」を気取りつづけたところだが、そのとき予期せずアルベルチーヌが会いにきて、はじめて私を愛撫してくれたのに、ランプを持ってきたフランソワーズに邪魔されたことがあった。》

《アルベルチーヌにたいする私の愛は単純なものではなく、そこには未知のものへの好奇心に、官能の欲望がつけ加わり、家庭的ともいえる安らぎに、ときには無関心が、ときには狂おしい嫉妬心がつけ加わっていた。》

取り調べている訳ではないが、こうしてプルーストの供述を聴いていると、こんなことはごく普通の男女の営みに過ぎないとわかる。以下引用文。(吉川一義訳)

《もしかすると私の財産が、つまり玉の輿に乗れるという見通しが、アルベルチーヌを惹きつけ、私の嫉妬がアルベルチーヌを引きとめ、さらにはアルベルチーヌの善意が、あるいは罪悪感が、あるいは巧みな策略が、本人に幽閉生活を受け入れさせ、私にその生活をますます過酷にするよう駆り立てたのかもしれない。》

次はこの小説の成り立ちを示唆する内容の供述である。

《そんなわけで、自己のなかに閉じこもって生きていると想いこんでいる我が心のこのような長嘆息がモノローグに見えるのは、外見だけにすぎない。なぜなら現実の反響がこのモノローグの方向を変えるからであり、またモノローグのような心的生活はいわば主観的な心理学試論というべきで、自発的に書きつけられたものでありながら、すこし経つと、べつの現実、べつの人生をひたすら写実的に描く小説に「行動」という「筋立て」を提供するとともに、この小説の情勢の急変がこんどは心理学試論の曲線をたわめ、その方向も変えてしまうからである。》