失われた時を求めて (108)

屋根裏の哲学者は箴言をひねり出すのが得意である。最後の余計な一言はプルースト流の皮肉であろうか。以下引用文。(吉川一義訳)

《人は、たったひとつの微笑みやまなざしや肩などに惹かれて、恋に陥る。それだけで、充分なのだ。すると人は、長時間にわたって期待したり悲しんだりするうち、ひとりの人物をでっちあげ、ひとつの性格を組み立ててしまう。そしてやがてその愛する人とつき合うようになると、どれほど辛い現実に直面させられても、くだんのまなざしや肩を備えたその人から、優しい性格、こちらを愛してくれる女らしい本性をとりのぞくことはできない。ある人を若いころから知っていると、その人が年老いても、その人から昔の若さをとりのぞくことができないのと同じである。私はそんなアルベルチーヌの優しく憐憫に満ちた美しいまなざしを、そのふっくらした両の頬を、きめの粗い首を思い浮かべた。》

以下の文章はいよいよこの小説の題名の意味に迫る記述である。

《このようなアルベルチーヌのもとで暮らしたさまざまな瞬間は、じつに貴重なものだったので、私はその瞬間をひとつたりともとり逃したくなかった。ところで私は、人が散逸した財産の一部を取り戻すように、失われたと思っていたそんな瞬間をときに見出した。たとえば自分でスカーフを首の前でなく後ろで結んだとき、私はそれまで一度も思い返したことのない散歩のことを想い出した。そのときアルベルチーヌは、私に接吻したあと、冷気が私の喉に当たらぬようにとスカーフをそんなふうに結んでくれたのだ。こんな取るに足りない仕草からふと記憶によみがえったなんの変哲もない散歩は、その人に仕えていた老小間使いが届けてくれてわれわれにとってことのほか貴重なものとなった亡き愛しい人の形見のように、私を喜ばせた。》