失われた時を求めて (121)

ツェッペリン号のパリ空襲を天空のショーのように描写している。以下引用文。(吉川一義訳)

《それでも私たちのいたバルコニーから眺めると、夜の静寂に突如紛うかたなきお祭り騒ぎが現出したかと思われたのは、打ち上げ花火ならぬ防衛用の照明弾があがり、パレード用とは限らぬ軍隊ラッパが鳴り響いたからである。私はサン=ルーに、夜空へ上昇する飛行機は美しいと言った。「降下するときのほうがもっと美しいかもしれない」とサン=ルーは言う、「(略)でも、きみがもっと気に入りそうなのは、ついに星々と一体となったもろもろの飛行小隊が(略)黙示録をなすときじゃないかな?おまけにあのサイレンだってなかなかワーグナーふうだったじゃないか、もっともドイツ軍の到来を迎えるのだからごく当然だろうけど、ずいぶん国歌めいていて、まるで皇太子や皇女たちを貴賓席に迎えて『ヴァハト・アム・ライン』を演奏したみたいだった。上昇してゆくのがほんとうに飛行士なのか、むしろワルキューレじゃないかと思えるほどだった。」》

地獄の黙示録ワルキューレの騎行の表現はフランシス・フォード・コッポラによりベトナム戦争の映画でもなされた。ドイツ軍の時のほうが本物っぽいがもしそれをやると不謹慎の批判を浴びそうだ。このあとずいぶん勝手気儘なことを言っている。

《「ヒンデンブルクは、まさに新星だそうだね」と私はサン=ルーに言った。「古くさい新星だよ」とサン=ルーは即座に答える、「それとも未来の革命かな。われわれは敵に手心を加えることなく、マジシャンに指揮をゆだねてオーストリアとドイツを打倒し、フランスをモンテネグロ化するのではなく、トルコをヨーロッパ化すべきだったんだ。」「でもわれわれは合衆国の支援を受けられるだろう」と私。「さしあたりぼくらにはばらばらの非合衆国の光景しか見えないね。フランスの非キリスト教化を怖れるあまり、どうしてイタリアにもっと大幅な譲歩をしないのか?」》