東洋文庫 夢の七十余年 西川亀三自伝 (1949)

本文を読んで行くと西川亀三はとてもスケールの大きい人物という印象を受ける。冒頭文もハイレベルである。少し紹介する。

京都府丹波国天田郡雲原村、これがわたしの揺籃の地である。わたしはここに少年期を過ごし、その後放浪50年の風塵を払ってふたたびこの地に帰り、父の代からの旧居を繕って隠栖し、余生を郷土の開発に捧げ、最近ようやく自適の生涯に入って老を養いつつある。》

この「自適」という言葉をなんとか表現すると、「世間の雑事に煩わされずのびのびと楽しみながら過ごすこと」という感じになる。老年になってもこれが難しいのである。一瞬そう思える事もあるが。

もう少し紹介する。

《山国の代名詞のようになっている丹波の奥のつまり、山高くして谷深く、丹後と但馬とに抱き込まれて、ちょうどすりばちの底のようになったところに、戸数百六十戸の小さいわが雲原村がある。》

まるで小説の冒頭のようで、大菩薩峠が始まるのかはたまた杏っ子かと思わないでもない。読み書きに勝れ、出奔して連れ戻されたりするところなどは将来大物になる人の特徴でもある。事業を手がけ、政治にも関与した生涯のようである。西川亀三の活動を一部紹介する。

第四章 鮮満活動十三年より

《はたして統監政治は秕政百出し、国内は騒擾(ソウジョウ)した。なかでも目賀田財政顧問の幣制整理による白銅貨引換は、その結果において通貨の三千万元を一挙に一千万元に減じ、韓民は一朝にして二千万元の大損害を受けることになり、その上於恩と称する旧慣の信用手形制度を廃止したため、貸金の大部分が貸し倒れとなり、経済界に名状すべからざる大恐慌が起こった。》

これに対し、西川亀三は商業会議所相談役という立場で、日本の新聞記者を集めて論陣を張らせ秕政を摘発し、自らも都新聞に目賀田多財政を叩く長文を発表する。その上で政府に陳情し援助資金を引き出したのである。