失われた時を求めて (129)

人生逃亡者プルーストの自白調書とも言えるこの文章に明確に彼の自負と言える箇所を発見した。以下引用文。(吉川一義訳)

《「知的な歓び」についていえば、たとえ私の洞察力あふれる目なり正鵠を射る論理なりがあれこれの事項を指摘しようと、なんの喜びも覚えずなんの成果も生みださない冷ややかな確認事項をはたして「知的な歓び」と呼んでいいものだろうか?》

この小説の表題に直接関わってくる箇所も出てきた。

《失われた「時」を見出すことができるのはサン・マルコ広場においてではなく、私の二度目のバルベック旅行においてでもなく、ジルベルトに会うためにタンソンヴィルへ戻ったときでもないことも、私は知っていた。こうした昔の印象が私の外部に、どこかの広場の片隅にでも存在するという錯覚をまたもや与えるだけの旅行など、私の求めている手段になりえない。(略)そうした印象をよりよく味わう唯一の方法は、それが見出されるところ、つまり私自身の内部で、それをもっと完全に知ろう、その印象の奥底まで明らかにしようと努めることであろう。》

いよいよウパニシャッド並みの難解な考察が出てきて答えまで書いているのである。いいところまで行っているのだが、こういったものは書いた瞬間に嘘になるという性質を持っていることが多い。プルーストは違う言い回しで何度も何度も述べた後こういう表現にたどり着いている。

《われわれの内部にあって他人の知らない暗闇からわれわれ自身がとり出すものだけが、われわれのものなのだ。》

この後は芸術論を長々と論じている。