失われた時を求めて (137)

これがプルースト少年の長年にわたって行われた密かな趣味なのである。以下引用文。(吉川一義訳)

《ドクター・ペルスピエの結婚式のときに見かけたゲルマント夫人といい、私の大叔父のところで出会ったバラ色の服のスワン夫人といい、それらは、スワンやサン=ルーにかんするほかの多くのイメージと同じく、それぞれみなイメージであり、私はそれを想い出すたびに、これらさまざまな人物との交際の端緒にそのイメージをまるで口絵のように配置して楽しんだものだが、実際のところそれはただのイメージにすぎず、現実の人間によって私のうちに残されたイメージではないように思われ、このイメージを当人へ結びつけるものはなにひとつなかった。》

実際に接するとどんな人物にせよイメージ自体がどんどん壊れて行くのである。だからプルーストは最初の口絵の部分が大事なのだと言っている。それは裏を返せば付き合わなければ永遠に口絵のままと言える。ブルターニュでの食事が実現しなかったステルマリア夫人のように。

このあとプルーストは挨拶にやってきた婦人について一人一人詳しく述べて行く。だが次に述べる場面は有名なのではないだろうか。

バカロレア試験でぜんぜん自信のない受験生が、口頭試問官の顔をじっと見つめ、自分自身の記憶のなかに探したほうがいい解答がそこに見い出せるのではないかと空しい期待をいだくのにも似て、私は微笑みながら自分のまなざしを太った婦人の顔立ちに注いでいた。すると、その顔立ちはスワン婦人の顔立ちのような気がして、私の微笑みは敬意の色合いを帯び、私の優柔不断も終わりかけた。ところが、その直後、太った婦人がこう言うのが聞こえた、「わたしをママだと思っていらしたでしょ、ずいぶんママににてきましたの。」そう言われて私にはそれがジルベルトだとわかった。》

ゆったりとして物悲しい一場面である。