東洋文庫 今昔物語集2 (12世紀?)

読んで行くと立山の地獄のこととか、道成寺伝説がでてきて興味深いが、要約では面白みがないので一話だけそのまま紹介する。

天王寺、八講のために法隆寺において太子の疏を写す語第十一

今は昔、天王寺別当の定基が僧都になって、御堂関白(藤原道長)のために、その寺で法華八講を創始して法華経を講じようとした。その時、藤原公則という者が、河内守として殿に親しく仕えていた者であるが、この講の費用にと、かの河内国大阪府)の田を寄進した。そこで、その田地の小作料をこの八講の費用に当てたので、以後、後代の別当も絶やすことなく八講を営み続けてきたのである。

ところが、斉祇僧都という人が別当であった時に、

「この寺で行う八講には、同じことなら聖徳太子が作られた一巻の経の注釈があるから、それでもって講じるのがよかろう。その注釈は、ほかの場所にはない。法隆寺の夢殿は昔太子がお住みになった所である。その場に太子の御物をお置きになっていたが、その中にこの注釈がある。それは太子の御真筆なので外に持ち出すわけにはゆかぬ。されば、この寺の上位の僧に字の上手な僧たちを添えて法隆寺に遣わして書写させりのがよかろう。」

そこで、上位の僧が字の上手な僧たちを引き連れて法隆寺に行き、南大門に立って人をもって来意を告げさせた。

「これこれのことで天王寺から参りました」 しばらくして高僧の着るりっぱな袈裟を着た僧たちが十人ばかり、香炉を捧げてやって来て、天王寺の僧たちを迎え入れた。天王寺の僧たちは不思議なことだと思ったが、この寺の僧たちにちて内へ入っていった。夢殿の北にある建物が前もって□い準備してあり、僧たちはそこに案内された。 その後、法隆寺の僧たちが、かの注釈を取り出して書写させていうには、

「昨夜、この寺の老僧お夢に、聖徳太子のお作りになった一巻の注釈がありまして、上宮王の疏というものですが、それを天王寺でおこなう八講で講じるために、書写しようと天王寺から今日僧たちが来るはずだ。さっそく迎え入れて、その注釈を惜しまずに取り出して書写させるがよいとのことでしたから、『もし来たならば』と言い、『僧たちは法衣を用意してためしに待ってみよう』と言ってお待ちしておりましたところ、夢のお告げのとおりに、あなた方がこうしていらっしゃいました。まことにこれは太子のお告げでございます」と感涙にむせびあうのであった。天王寺から来た僧たちも、これを聞いて限りなく貴び涙を流した。

こうして、天王寺の僧たちがかの注釈を書写すると、法隆寺の僧のなかでも書に巧みな者が多数出て来て協力し、各々一、二枚ずつ書いたので、たちまちのうちに書き終えて、みな天王寺に帰った。それから後はこの注釈によって法華八講を営んだ。

されば、この八講は太子が夢にお示しになったものだから、とても貴いことだと人々は言った。十月に行うものであるから、季節もまことに趣き深いころである。

心ある人はお参りして聴聞すべきだ、と語り伝えたとのことである。》

しみじみとした話だが、単なるプロモーションとも言える。