東洋文庫 新訂 西洋記聞 (1715)

新井白石は宝永五年(1706)の八月末、鹿児島県の屋久島に潜入上陸したローマ法王庁使節、ジョヴァンニ・バッティスタ・シドチをわざわざ江戸に連行させ、しかも六代将軍家宣の特命によって翌宝永六年の十一・十二月に、シドチ取り調べの主役をつとめることにまでなった〜

解説にはこのように非常に明確に事実が述べられているのだが、本文を読むと薄ぼんやりにとしかわからない。事実や経緯を縷々述べているはずなのだがそうなのである。本文を一部紹介する。

《宝永五年戊子十二月六日、西邸にて承りしは、去八月、大隅国の海鳴に、番夷ありて、一人来りとゞまる。日本・江戸・長崎などいふ事の他は、其言語きゝわきまふべからず。みづから紙上に数圏をしるして、ロウマ・ナンバン・ロクソン・カステイラ・キリシタンなどさしいひ、ロウマといひし時には、其身をゆびさせり。》

《其たけ高き事、六尺にははるかに過ぎぬべし。普通の人は、其かたにもおよばず、頭かぶろにして、髪黒く、眼ふかく、鼻高し。身には茶褐色なる袖細の綿入れし、我国の紬の服せり。これは薩摩の国守のあたへし所也といふ。》

《彼人を召し出して、こゝに来れる事の由をも問ひ、又いかなる法を、我国にはひろめむとはおもひて来れるにやとたづねとふに、かれ悦び堪ずして、某六年がさきに、こゝに使たるべき事を承りて、万里の風浪をしのぎ来りて、ついに国都に至れり。しかるに、けふしも本国にありては、新年の初の日として、人皆相賀する事に候に、初て我法の事をも聞召れん事を承り候は、其幸これに過ず候とて、その教の事ども、説き尽くしぬ。其説、はじめ奉行所より出せし三冊の書に見えし所に、たがふ所もあらず。》

《明年三月、ヲゝランド人の朝貢せし時、其通事して、ローマ人の初め申せし所にたがひて、ひそかにかの夫婦のものに戒さづけし罪を糺されて、獄中に繋がる。》

《其月の半より、ローマン人も身病ひする事ありて、同じき廿一日の夜半に死しぬ。》

これがこの事件の顛末であるが、なかなかわかりにくいものがある。新井白石が博識なのはわかるが記録において事実を詳らかに書くことを避けているふしがある。史実によると白石の進言で処刑を免れたシドチは小石川の切支丹屋敷に軟禁されていたが、禁を破って住み込みの夫婦に布教したため地下牢に移されそこで病死したのである。本文のような重要な事は全部省いてある文章はわかりにくい。